演奏をしているひとはきっと、その心の奥深くでは、たとえ何らかの理由で演奏能力が著しく損なわれ、上手下手で言えばすごく下手になったとしても、演奏をしたいと願っていると思う。
それならば、演奏に求められるのはただ演奏することだけ。質、上手さ、正確性、ぜんぶ喜ばしいボーナスなんだ。
演奏をしているひとはきっと、その心の奥深くでは、たとえ何らかの理由で演奏能力が著しく損なわれ、上手下手で言えばすごく下手になったとしても、演奏をしたいと願っていると思う。
それならば、演奏に求められるのはただ演奏することだけ。質、上手さ、正確性、ぜんぶ喜ばしいボーナスなんだ。
演奏、なかでもその身体的な面(姿勢、呼吸、手や指のフォーム、アンブシュアetc)に関して言われたり見聞きしたりする「禁則」の驚くほど多くがほんとはやって大丈夫なこと、やっても構わないこと、やった方がいいこと、やる必要があることのいずれかに当てはまる。
「禁則」の多くはもともとはそれなりの意味や理由があったのだろうけれど、それはある時代や状況や関係する特定の人間のコンテクストにおけるもので、常識や論理を少し活用すれば到底一般化できないものが多い。
きょうはこれから、プロフェッショナル吹奏楽団の方々とのセミナー。
アレクサンダーテクニークってなんだろう?
いつものセミナー。
「ひたすら痛みに耐え辛い苦しい基礎練習に耐えることでうまくなる」モデルが、それで頑張っていたら吹けなくなるほど身体が痛くなり、心が弱ってわずか19歳で限界に達し、それとは異なるモデルを模索するしか続ける道がなかった。
大好きな曲を移調してさらえば、それは創造的で、飽きのこない、『意味』のある音階またはアルペジオ練習になる。
ある曲を『できるようになるため』に『演奏能力を身に付ける』必要がある『から』基礎練習をする、っていう考え方は、『まだできない、まだ力が及ばない、演奏したい曲を演奏する資格がまだはい』という泥沼にはまりこむ危険がある。
つくづく、音楽を演奏するなかでのあがり症や強い苦手意識という問題と向き合うにあたっては、複雑なパズルを読み解き、ほつれた糸を一本一本解きほぐすような作業を要することがあると身を以て実感している。
恐怖や面目、評価されることより大切なことにつながりながら演奏するというそこに至る道。
きょう練習していて、見えてきたことがあります。練習は、「奏でたい音楽を実現すべくチャレンジする」作業だと思うのですが、いつの間にかそれが「ダメなところを潰す」作業にすり替わっていってしまうことが多いですよね。ミスや失敗するたびに反射的に「やり直す」、あの為にならない練習。
「奏でたい音楽を実現すべくチャレンジする」作業、としての練習は、一回一回のチャレンジで「どこがダメだったか」に着目するのでなく、「どこが前回と変わったか」「どこが良くなってきたか」の手応えを感じて、「前進」する作業です。
昨日は、ニューヨーク・フィルのホルン奏者アレン・スパンジャーさんと四年ぶりにお会いしました。スパンジャーさんはジュリアード音楽院を卒業後に三年かけてアレクサンダーテクニーク教師資格を取得されたのち、ニューヨーク・フィルに入団されました。
スパンジャーさんは、「アレクサンダーテクニークがなかったら自分のこのキャリアはあり得なかった。自分がいまできることはすべてアレクサンダーテクニークのおかげだ」と仰っていたのが印象的でした。
結果を叱責することの愚は、望まぬ結果をもたらした過程の中身を見えなくさせることにある。ただいい加減にやったから起きたミスと、難しいことに挑んだ結果の失敗や、力みや緊張からくるミスとでは、改善のための方法がまるでちがう。
それを全て、『努力不足』の類に還元してしまうのは極めて破壊的。
いままで 10年、「成果が出る練習」「プラスになる練習」「マイナスにならない練習」は何なのか、どんな構造をしているかを調べ、実験し、追求しつづけてきた。
ちかごろ見えてきたのは、その鍵は「『練習』はせずに、『音楽』をする」ことにある、ということ。