わたしが奏法の話をするときは「中和解毒剤」として用いている、というところからの続き。
【血清的奏法論】
中和しようというからには、毒がある。
その毒とは、奏法論。
どうして奏法論が毒になるのか?
奏法論が「正しい(or良い)やり方」を狭めて定義しようとするから。
薬にも合う合わないがあるように、奏法論にも合わう合わないがある。それは、奏法論が現実の多様性を汲み取りきれないからだ。
薬に合う合わないがあるように、奏法論も万能薬ではない。なのに、万能薬かのように用いようとして、現実を奏法論に合わせようとして、合わない事例や逆効果になる実態を否定すり。
この実態の否定が「毒」。
その毒を中和する。
では、中和しきったらそこに残るのは何か?
実態や真実が残るのではないか。
その実態・真実に根ざした「楽器はどうすれば吹けるのか?」の論は何だろうか?
そこにアーノルド・ジェイコブスの哲学は肉迫しているのかもしれない。
「歌うこと」
「奏でたい音色をありありと思い浮かべること」
「語りたい音楽を自らのうちに創り、それをたまらわずに言い切ること」
ボディマッピングやアンブシュアタイプ研究や解剖学的な呼吸理解などは効果的な解毒剤。
ジェイコブスの哲学やアレクサンダーテクニークの論理は、実態や真実に近い故の解毒効果もあるが、本質的には「楽器でやりたいことはどうすればやれるか?」の構築的方法論として位置づけられるのではないか。
このように考え始めている。