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音階練習やアルペジオの代わりに、気に入った曲やフレーズをいろいろ移調して練習するなどして、練習をもっと音楽的にしたら不思議と、気が楽になった!
音楽と技術が自分の中でもっと切り離されていたときは、音階とかアルペジオとかの基礎練はどこか数値維持や更新をモチベーションにしたフィジカルトレーニング的な面があった。
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音階練習やアルペジオの代わりに、気に入った曲やフレーズをいろいろ移調して練習するなどして、練習をもっと音楽的にしたら不思議と、気が楽になった!
音楽と技術が自分の中でもっと切り離されていたときは、音階とかアルペジオとかの基礎練はどこか数値維持や更新をモチベーションにしたフィジカルトレーニング的な面があった。
ロシアンプラスの演奏を聴いて、金管楽器の演奏スタイルが独特だなあと感じる。あまりロシアの音って接する機会がないから。特にトランペットが独特で個性的。けど実に素敵。
こういった個性とクセの境目は非常に曖昧だと思う。大事なのは、びっくりするぐらい独特でも、磨かれてくると紛れもなく素敵だということ。個性を普遍的美しさに昇華させるのが技術、経験、人格の成熟なのかも。
ひょんなことから、ホルンの演奏を20秒ほど撮りたいと頼まれ、Laudatioの冒頭部分をカメラの前で吹くことに。
なんとなくプレッシャーというか本番の感じにギクッとするがうまいことハラが座り自分を受け入れ適度に諦め。すると不思議な力が抜けた感覚。
聴きにいったコンサートで、会場や打ち上げなどで何人かの方に声をかけられ「ブログや本を読んでいてとても気持ちが楽になった、生き方変わった」という言葉を頂いた。びっくりしてうまく受け取れなかったけれど、感謝しています。
どこかで「自分の書いてるものなんてまやかしなんじゃないか、それで役立っているひとがいてもそれは気休めなんじゃないか」という気持ちがあったけれど、きょう直接伝えてもらえた経験は「ブログ書くのは誰かにとって意味あることなんだ」と感じさせてもらえました。
先日、東京都交響楽団で活躍している古くからの友人である岸上穣くんの宅へお邪魔しました。結婚されたところで、そのお祝いもかねて (^^)
彼も京都にルーツがあり、高校時代は同じホルンの先生に師事しておりました。
それもあって、高校生のときからの知り合いです。
学生のとき、アンブシュア変えて奏法が分からなくなって焦って練習量に突っ走って結果、身体を痛め、どうにもならなくなり、追い詰められ疲れ果てホルンをやめる決心をした。
決心すると、その日のうちに気が楽になったので、もう別になんにも頑張らずに吹けばいいやと思って、それで吹いてみたら嘘のように気持ちよく、楽で、ちっとも痛くなかった。
まっすぐに、というイメージは姿勢にしても構えにしても音にしても、奏法を硬くさせ緊張を引き起こしやすい。たぶん、まっすぐというのが二次元的・仮想的・静的だから。対して身体や楽器や音は三次元・現実・動的。イメージが現実とズレている。
例1:
マウスピースをアンブシュアに対しまっすぐに当てようとするのも、よく考えるとちょっとおかしい。アンブシュアは立体的で複雑な形状でしかも動いて形を変え続けるので、見た目のまっすぐな位置は不都合不安定極まりないことがある。求めたいのはいちばん平坦、安定で都合がよい場所。
上達や進歩に着目しながら練習するって、自己満足とか中二病とかゆとり世代がどうこうとかじゃないんだよね。
パイロットが目測による主観でなくレーダーに従うのと同じで、上達や進歩に着目し評価するってことは規律であり安全対策でありもっとも信頼おける道筋なのです。
大人として仕事するってことは、プロとして仕事するってことは、
完璧主義からは程遠いところにあって、
「ダメだな、下手だな、まだまだだな、ぜんぜんできていないな」と感じる自分のまんまでやる他ない。
きょうホルンの練習をしていて、「無力感」というものに改めて触れました。
いま、新しい曲を練習しています。