☆ロンドンのホルン奏者、ピップ・イーストップ氏のエッセイです。
原文→http://eastop.net/?p=275
(1995年発表)
現代音楽をたくさん演奏していると、けっこうイカれた音を要求されることがある。たとえば、ロスタコフの曲で、ラウールと私が両方ともゲシュットプで、しかも重音で5度を、しかもそれぞれ別の5度を、しかもちょっとずれたタイミングで奏する、とうものがあった。チャレンジしてみて楽しかったが、頭骨内のキツい振動と喉での乱流現象を耐えて頑張るだけの価値があったかを判断するのは難しい。こも乱流現象は、声の振動と楽器の音の振動との間で起こる干渉パターンによって引き起こされ、頭の中をひっかき回す。しかしながら、同僚が大笑いしていたところをみると、なんらかの感情的ニュアンスが伝わったようだし、現代音楽ともいえどもそれは音楽の意義ではある。これに関して、二つ気になる事がある。
1:二人で四人分吹かせるこの作曲技法は、二人分のギャラですむという点で、マネジャーのお気に入りなんだろうか。
2:女性は声域の関係上、この演奏技法が難しいが、そのようなことを作曲するのは、政治的に間違っていやしないだろか。
先にも述べたが、私は現代音楽に背を向けたし、一旦ホルンも辞めて、ロンドン?シンフォニエッタも退団し、一生の仕事にするためにアレクサンダー・テクニークの教師養成プログラムを修了することにした。実際にその通りにして、丸一年ホルンを吹かなかった。….だがある日、私の中で何かが壊れて、気付いたときには、ベッドの下に焦ってもぐりこんで、ほこりだらけのホルンケースを引っ張りだしていた。震える手でケースのフタを開け、楽器を取り出し、キスをしていくつか音を吹いた。一瞬発狂していたのか、感覚がおかしくなっていたのか、記憶が間違っているのか分からないが、これまでに自分が吹いた音でも最も甘美な音だった。一分半の、甘美な時間だった。そのあとは、アンブシュアがバテて使い物にならなかった。
その記念すべき日から後、音とスタミナと自信を取り戻すのに、六ヶ月間の大変な労力を要した。この経験は、オススメだ。そのときから、私は吹きたいと決めたからホルンを吹いているのだ。結果的に、わたしの仕事のキャリアはまたガラッと変わってしまった。この経緯には、もう少し説明が必要かもしれない。
9歳のころにホルンを始めたころから、私が最大限に感謝している両親は、私に与えうる限りの励ましをくれた。何年も隣に座って練習を手伝ってくれたし、はじめはカリソンのセミダブル、そのあとはハンスホイヤーのダブル、そして今でも20年使っている宝物のようなアレクサンダー103を買い与えてくれた。ホルンを始めてからの最初の数年を、変えたいなどとはもちろん思わないが、ある意味では父と母に喜んでもらうためにホルンを吹いていた部分があった。プロになってからもそういう部分があったのだ。両親にとって、私がプロのホルン奏者を続けていることは大きな感情的な入れ込みかたがあっただろうし、事実上わたしがそれをまるごと放り投げて突き返したときは、どれだけひどい苦痛であっただろう。遅れて来た思春期の反抗みたいだったかもしれない。それらを全て自分から解放してからはじめて自分のためにホルンをやりはじめたのだ。ホルンを一度やめたとき、両親はわたしを批判しなかった。思い返すと、私はそれに感謝できる。だが、これだけ価値あるものを放り出してしまう恩知らずで愚かな私の行為に、両親はきっと怒り傷ついたであろう。
もちろん、私にはまだ愚かなことであったとは思えない。そのとき、私はホルンがもうたくさんだったし、辞めたいときに辞めて構わないと思っていた。だから辞めたのだ。この経験が、私がホルン演奏に対して完全に主体的にさせてくれた。再開したときには、ホルン演奏は全て自分のことだったし、それはかなり深く感じた。新鮮なスタートだった。白紙に戻っていて、予期せぬ事に、それから7年たったいま、ホルン演奏が楽しくて仕方がなく、すっかり熱中している。もうずいぶん昔のつまらない話をここで書いているのは、同僚に「キャリア自殺」を勧めているわけではなく、お金のためではなくていったい何が、私たちを楽器・両親・経済的生活との格闘に向かわせるのか、少し考えてもらいたかったからだ。
おわり