「自分で自分を教える」その5 ピップ・イーストップ著 バジル・クリッツァー訳

☆ロンドンのホルン奏者、ピップ・イーストップ氏の論文です。
原文→http://eastop.net/?p=485

 この章では主に技術に関して取り上げてきて、ホルン演奏が非常に技術的に高度なものを要求されることだとも述べた。これは事実だが一方で、バランスを取るためにも、言及しなければならないことがある。それは、音楽的な経験をしたいと望んで聴きに来た聴衆の視点に立てば、ホルン演奏の内部事情などちっとも興味がない、ということだ。当然、演奏には優れた技術が必要とされる。しかし、技術のことを強調するときにある危険のひとつは、「音楽性」と形容される、音楽に対する「感覚」を育む事が無視されることだ。また、スタイルやフレージングといった側面も無視される危険がある。音楽とは、他の言語と同様、自分自身を没頭させ、それに対して愛を育むことによってのみ学ぶ事ができる言語なのである。

 技術的な要求の高い楽器を学ぶ人が覚えておくべき事がある。私たちは楽譜をとても複雑で豊かな空気の振動に置き換えるよう訓練されているが、それはスケッチにすぎないのである。作り上げられた「音楽」の骨組みだけなのだ。作曲家たちは、音楽家たちが、役者が台詞を無味乾燥な機械的な言葉としては言わずに、演技をして意味と表現に満ちた声で話すのと同じように、基本的な構造を記した楽譜に肉付けをし、音楽的意味を与え、生命を吹き込み、解釈するものだと思っている。しかし、残念ながら、ひとはホルン奏者が音楽的に何かを伝えようとせずにフレーズを演奏しているケースに、予想以上に出会うだろう。奏者が、演奏を「する」のにばかり一生懸命で、聴衆には奏者の技術しか聴こえない結果になっているのに気付いていないように見えるかもしれない。これはとても残念な状況である。なぜなら、もし技術が完璧でそれが故に技術が目につかないと、聴くべきところが全くないのである。逆に、技術が欠陥だらけなら、聴衆にはそればかりが耳に届き、批判するのに熱中するだろう。

 音楽を学ぶ人にとって、楽器演奏の技術とは、それが恐ろしく難しくとも、始まりにすぎないのだ。技術は、それ自体が目的であってはならない。根本的な目的は、聴衆を感動させる魔法に満ちた、コミュニケーションに満ちた音楽の演奏なのだ。

脚注:多くの音楽家と同様、私はアレクサンダーテクニークに恩恵を受けている。このテクニークを発見したF.M.アレクサンダーは、この章で述べてきたような「自己観察」の先駆者であり、教師であった。彼は、「習慣的に不正確な自己観察・複雑な身体的動作の神経刺激と身体的遂行」の認識とそれに続く再教育のための洗練された方法論を発展させたことで有名になった。

おわり

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