・・・このシリーズ、魂から言葉を振り絞って書いている感じがします。大変です。
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前の記事に続いて、この記事では私自身の経験を傍証としながら金管楽器奏法の「選択肢」と、選択の自己決定の重要性を主張したいと思います。
私はホルンを演奏していますが、ホルンの奏法・ホルン演奏時の身体運用について5つの側面で象徴的な体験をしています。
それは
・「顎を張ること」について
・「唇を横に引くこと」について
・「マウスピースの位置」について
・「呼吸法」について
・「姿勢」について
です。
この記事では、「マウスピースの位置」について述べます。
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【マウスピースの位置にについて】
金管楽器の世界では、マウスピースの中の上下の唇の割合が上唇 2/3 下唇が 1/3になるような唇に対するマウスピースの当て方をすることが推奨される傾向があります。
そのような傾向が一般化するに至ったのは。おそらくアメリカの高名なホルン奏者で教師である故フィリップ・ファーカスの教え及び著作の影響が大きいものと推測します。
ホルン奏者が提示した論ではありますが、金管楽器関係の書物の中身としては丁寧に論じられた内容のため、ホルン以外の金管楽器の奏者や教師も大いに参考していきました。
念のため言及しておくと、この考え方の浸透度合いはホルンの世界がかなり濃く、トロンボーンもホルンに次いで濃いようです。チューバの世界ではアンブシュアのことをそれほど細かく考えないことを推奨する別のメソッド(アーノル・ジェイコブズの奏法論)が浸透しているため、相対的にはこの考え方はかなり薄いものと思われます。トランペットの世界はトランペット奏者による双方論のディスカッションが盛んであるからかホルに比べると この双方論の浸透度合いは薄いようです。
さて、このシリーズで毎回登場する中学3年生のときに初めて師事したホルンの先生ですが、やはりこの先生に私は
「マウスピースを当てる位置が低すぎる」
と言われました。
そして、その先生の論拠がフィリップ・ファーカスの奏法論だったのです。
そして、マウスピースの位置を変えて吹くことは、当時の私には、あまりにも吹けないし違和感も大きすぎて、最も受け入れ難く感じました。
前回・前々回の記事と併せて、この先生の考えに基づけば、中学3年の私は
・顎が張れていない
・唇を横に引きすぎている
・マウスピースの位置が低すぎる
ということになります。
そして、
・トランペットならこの吹き方で良いけれど、ホルンではそれはうまくいかない
とのことでした。
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さて、当時の私は、いずれの診断も
・変えても全然吹けない
・違和感が強く、しっくりこない
ため、受け入れませんでした。論理的にも何かおかしい気がして納得できてもいませんでした。
そして、この先生が本当に立派だったのは、受け入れないで私の選択は認めてくださったところです。
約50歳年の離れた、何の経験もない中学生の持論を無理に屈服させようとは全くされませんでした。
これがもし、態度の異なる先生であったとしたら 私はもう高校の途中ぐらいでもうホルンをやめていたかもしれません。
しかしながら、これら三つの「宣告」は、わたしの不安性傾向に強く食い込み、いつも
「うまくいかないのはアンブシュアのせいかな」
「このまま努力しても無駄なのかな」
と考えてしまって、そうやって駆け巡る思考は深い悪影響を持つようになるのでした。
このあたりの、もう少し詳しい話
【アンブシュア恐怖症】
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その後、高校2年生になって元・京都市交響楽団ホルン奏者の小山亮先生に師事し始めした、
この小山先生に習っていた時期は、すごく力が伸びました。
小山先生は私の奏法に侵襲的に接することはありませんでした。
小山先生は、おそらく生徒により教える内容も接し方もかなり変化させる方で、私に対しては私が自分でものを考えて決めていくタイプであることに合わせて接して下さっていたのではないかと思います。
おかげて成長を阻害せずに後押ししてもらえました。
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しかし、大学に入学後、大学で師事した先生から、中学で初めて師事した先生と同じ三つの診断・宣告を受けました。
これでずっと私に巣食っていた
「ほんとはダメなんじゃないか」
という不安に、私は一気に呑み込まれてしまいました。
また、これは小さい頃からの私の心理的傾向によるものなので、直接ホルンの先生が悪いわけではないのですが、高校に入った頃ぐらいから始まった、人生に対する不安と絶え間ない内なる自己批判の声により、身も心も随分消耗していたように思います。どこか、「ほんとはダメなんだ」というネガティブな、かつ生産性や具体性のない思考にもう屈してしまったほうがラクに感じたところがありました。
実は、大学の先生からは
「いまの吹き方のままだと、高音には非常に強みを持つプレイヤーになれるかもしれない。でも低音は弱点のままだろう。変えるか変えないかは君の選択だ」
と言われていました。
選択肢はあったのです。
しかし、私は不安や自己否定のバイアスの影響を大きく受けた選択をしました。マウスピースを当てる位置を変えることにしました。
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そして、この選択は誤りでした。
・マウスピースの位置を変えたところで、そこからどのように練習するかという見通しや練習のプランが先生には無かった
・私の技術的な進捗は非常に遅いものになり、音大時代を通じて、音大レベルの技術に達せず、したかったはずの経験や学びの多くが得られずに終わった
・在学中も、卒業後も、身体の痛みの問題に何度も見舞われることとなった
・
・
・
おそらく、先生が良いと考える奏法像や音色は、私という人間・その身体に合わないものだったのだと思います。進捗があまりにも遅いのも、身体の痛みが発生したのも、それ故である面が大いにあると思われます。
これは、これを書いている2025年現在になってやっと見えてきたことですが、おそらく私は結局
A自分の元々の奏法
B二人の先生の考えに無理に合わせた奏法
の二つの奏法を抱えながら、Aを抑えつけながらBを無理してでも人工的にぎこちなくやろうとするというようなことを20年以上やっていたのではないかと思います。
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なぜそのような無茶な「共存」を永らえられたのか?
実は、その一番大きな理由は、二人の先生たちによる「マウスピースの位置が低すぎる」という診断が誤りだった可能性が高いことにあります。
それが分かったのは、この記事を書いているいまより10年前の2015年に出会った、アメリカのトロンボーン奏者である故ドナルド・ラインハルトに端を発する金管アンブシュアの研究によるものです。
この研究は、「マウスピースが動く方向」と「息が流れる方向」を見れば、金管楽器奏者のアンブシュアは
マウスピースの中で
①上唇の割合が多いタイプ
②上下の唇の割合がだいたい同じくらいのタイプ
③下唇の割合が多いタイプ
の3タイプに分類できるという研究です。
フィリップ・ファーカスおよび二人の先生が「正しい」と考えるのが①。
二人の先生が私がこう吹いていると考えたのが③。
どれかが正しいのではなく、人によってどれが良いかが異なると考えるのがアンブシュアタイプの研究。
この研究を知って気がついたのは、実は私は中学のときからずっと①だったのだけど、見た目の特徴から二人の先生は③だと誤解したのだった、ということです。
つまり、「こうしなさい」と言われていたことが、実はできていた、ということ。
故に、「変えようとして変わらなかった」。だから、どうにかホルンを続けられた。そして、そもそもが誤解だったから酷く混乱し大変な無理があった。
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以上のような視点から見ての「誤診」を二人の先生がしたこと。
これは、私の言っていることがただの甘えや 戯れ言でなければ、私の人生において 本当に不本意な取り返しのつかない悪影響がありました。
ただの甘えや戯言でないというひとつ 大変 大きな証拠は、実はアンブシュアに対する 何らかの診断や矯正の試みを経て著しく演奏能力を落としたり、全く失ってしまうというような事例が日本に限らずヨーロッパでもアメリカでも昔から多数ある事実です。
このような事例は指導者の立場の側からは、
「我慢ができなかったから」
とか
「変えなかったとしたらそれはそれで十分に 演奏能力は育たず、モノにならなかったのだから」
といったような言い分で正当化されてしまっている構図があります。
実力主義の世界では、演奏能力が落ちた人やもともとの才能が際立ってない人は、もはや 聞く耳を持ってもらえないところがあるのです。
これは実に不正義なものと私は思います。
しかし、私は2人の先生を個人的に恨んでいるかといえばそういうわけでもありません。
というのは、そもそもこんなことが起きてしまう原因は
・アンブシュアには一つの決まった正解像があって
↓
・その像と比較して異なるものは「正しくない」「よくない」と評価する
↓
・一つの決まった正解像に向けて矯正をする
ということが スタンダードになっている金管楽器教育界の文化にあります。
この文化が数々の「加害」を生み出してしまうのは
○正解像の多様性を拒否する
○自らの正解像の修正をしない
○正解像の求め方の根拠が薄い
○診断においても曖昧な見た目の印象に拠るところが大きい
○教師、指導者の誤りの可能性をできるだけ 認めないようにしている
○生徒というものは物事を分かっていない、自分で正しい判断はできないと考えている
からでしょう。
でもそれで普通という文化なのです。
二人の先生はこの文化を踏襲していたに過ぎない面があります。その文化の踏襲に対する責任はもちろん二人の先生たち自身にありますので、何ら責任がないということではありませんが。
また、1人目の先生は私の「反論」「拒否」の自由を受け入れてくれていましたら。
そして 大学時代の先生は、アンブシュアを変えずにそのまま行く一応選択肢を示してくれてはいました。
だからこそ一応潰れずに続けてこれたのだと思います。
ギリギリのところで、私には選択肢があって、選択肢の中から自分で行く道を決めるという自己責任を負えたのだと思います。
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金管楽器の世界には、フィリップ・ファーカスに代表されるようなアンブシュアの正解像以外にも、「一つのアンブシュア正解像」を「それに当てはまらない場合は矯正すべき」という奏法論はあります。
・アインゼッツェンorアンゼッツェンの議論
・粘膜奏法論
などです。
ファーカスの論も、これらもその根本的な発想として「一つだけの正しい形」や「絶対に矯正すべき状態」というものを定めるところにあります。
そういった発想に基づくいずれの奏法論についても、ラインハルトに端を発するアンブシュアタイプの研究は強力な反証になっていて、かつそれらの論のいずれをも包摂できる金管アンブシュアに対する見方を提示できていると私は思います。
あらゆる人の役に立って、だれもとりこぼさない・否定しない。それでいて、他の奏法論より実際の有効性も高い。そう言っても概ね間違っていないと思います。
ですので、詳しくは下記記事群をどうぞご参照下さい。
【金管楽器を演奏するひとのための、アンブシュアに関するヒント】
【トランペットパート全員のアンブシュアモーションを調査!】(動画
アインゼッツェンとアンゼッツェン
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明日以降の次の記事では「呼吸法」について述べていきます。