前の記事に続いて、この記事では私自身の経験を傍証としながら金管楽器奏法の「選択肢」と、選択の自己決定の重要性を主張したいと思います。
私はホルンを演奏していますが、ホルンの奏法・ホルン演奏時の身体運用について5つの側面で象徴的な体験をしています。
それは
・「顎を張ること」について
・「唇を横に引くこと」について
・「マウスピースの位置」について
・「呼吸法」について
・「姿勢」について
です。
この記事では、「呼吸法」について述べます。
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呼吸法は、日本においては「腹式呼吸」が正しいとされることが多いでしょう。
そして、その「腹式呼吸」とは何か?
よく言われている構成要件を挙げます。
・お腹に息を入れる
・息を吸うときにお腹が膨らむ、膨らませる
・息を吐くとき、お腹をへこませる
・息を吐いているあいだ、お腹に力をいれて張っておいて、へこまないようにする
・息を吸うとき肩が上がってはいけない
・重心を下に
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さて、この中に矛盾が一点あるのに気が付きましたか?
息を吐くとき、
・お腹をへこませて吐くことをが腹式呼吸
・お腹をへこませないようにするのが腹式呼吸
正反対ですが、どちらも腹式呼吸だと言われることがあります。
これは、腹式呼吸の定義自体が曖昧というか、客観的な明確な定義は存在しないからだと私は考えています。
そういう定義が曖昧か無いもので以て「呼吸の正解像」を定め、その正解像にすべてのひとを当てはめ、その像に一致しない呼吸の様子を誤った呼吸、良くない呼吸、変えるべき呼吸だという評価をする。
この記事シリーズでここまで述べてきたアンブシュアに関する世の奏法論の背景にある発想と同じなのです。
私は、呼吸法についても、この発想が原因となって呼吸法の指導、習得、実践が阻まれているケースが有りふれているのではないかと考えています。
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まず、わたしが呼吸法の指導を初めて受けたのは、小学校5年生で習い始めたフルート教室であったろう思います。そして、中学に入って吹奏楽部に入部して(そこでホルンを始めました)また改めて呼吸法の指導を受けました。
しかし、いずれの場面でも、習った呼吸法はピンとこない・苦しいだけの結果をもたらすものでした。
フルートの先生は、とても良い先生だったと思います。それでも「正しい呼吸法像」を一つに絞り、それ以外は良くないという考えのもとに、特定の呼吸運動をさせることが指導の定義になっていたわけです。
そして、吹奏楽部では何も分かっているはずもない中学生や高校生の先輩が同じような内容の呼吸法を教えるわけですから、この問題は指導者のレベルや人格、指導内容が根本にあるのではなく、やはり呼吸法の正解像が腹式呼吸に限定されていて、それ以外の呼吸法を比較検証するという発想が忘れ去られてしまっているところにあるのではないか、という気がします。
たくさん、しっかり吸うと、「肩が上がっているからダメ」と言われて、それで肩が上がらないよう気をつけながら吸ったらとても苦しく、不快極まりないもので、楽器演奏をより困難にしてしまうのが、腹式呼吸を実践しようとした私の実体験でした。
こういう個々の実体験に向き合わないでいるのが、腹式呼吸だけを良しとする呼吸法文化の問題点です。
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このような腹式呼吸文化から自分自身を解放できた場面が2つありました。
一つは、高校1年の頃。
これまでの記事でも言及しているフィリップ・ファーカスの著書において、呼吸法のコツとして、「真夏に突然冷たい水をかけられたときのような吸い方」という趣旨の記述がありました。
これは、私という人間、その身体におそらくマッチしていたのでしょう。すぐピンときました。アメリカ、しかもシカゴの金管楽器界の世界にいたファーカスは、日本のような腹式呼吸文化が薄かったかもしれません。それまで教わってきて、私個人には使いモノにならなかった内容とは異なる内容・感覚が書かれていたことで、ファーカスの権威により腹式呼吸文化の権威を相対化できたのです。
二つめは、高校2年の頃。
アメリカの高名なチューバ奏者で金管教師のアーノルド・ジェイコブスのレクチャーCDを手に入れて聞き込むようになりました。
ジェイコブズは呼吸の生理学に非常に詳しく、またジェイコブズの流派は「チェストアップ」と呼ばれる呼吸法像を描きます。
・空気は胸、肺に入れる
・胸を拡げる
・胸を高く保つ(重心は高い)
そういう方向で呼吸を考えるのです。
日本で支配的な腹式呼吸像とは全然ちがう、もはや真逆です。
わたしにとってはすべてロジカルに納得できたのと、実際そういう考えでやってみたほうが楽器演奏においては腹式呼吸よりよっぽどしっくりきたのです。
ちなみに、ジェイコブズは自身が育った時代においては「腹筋に力を入れて硬くする。そうすると筋肉が強くなって演奏能力が上がる」という考え方の金管教育が盛んで、しかしこれはその更に一時代前に歌唱法の世界で流行しながらも解剖学等の進展により廃れた遅れた考え方を金管教育の世界が取り入れていた、とのことです。
そして、ジェイコブズが60歳ごろになるまで(1980年代)、アメリカでもジェイコブズの教えは異端視されていたとのこと。
これは
という、ジェイコブズ自身のレクチャー映像や、ジェイコブズに師事した奏者たち同士の対談などが多数公開されているYoutubeチャンネルで知ったことです。
いまでは、ジェイコブズ流はアメリカの金管奏法論の最大主流派でしょうから、奏法論の世界の「正解像」は普遍・不変ではなく、時代により変わるし、そこには政治力学的な結果も反映されていることが分かります。
大学で師事した先生は、まったくもって胸式呼吸派です。日本でよく教わるような腹式呼吸は、「ナンセンス!」とけんもほろろでした。
そこは、私にとってはプラスでした。
でも、日本において胸式呼吸派は存在しないかといえばそんなこともなく、
元NHK交響楽団ホルン奏者で昭和音楽大学教授の中島大之氏の「ホルンのためのウォーミングアップとエクササイズ」(風の音出版)では、冒頭の『はじめに』の項でこのように記されています。
《昔から日本では腹式呼吸という表現が定着しており それが誤解を招く一因になっていると思われますが・・・(中略)・・・肋骨を広げてさらに肺に十分な空気を満たす必要があります》
・
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・
このように、呼吸法の正解は腹式呼吸だけであるとも、腹式呼吸が優れているとも全く限らないのです。
であるならば、私は『呼吸法に選択肢があり、それを奏者本人が自らが望む演奏のために自由に選べること』こそが必要なことだと考えます。
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私は、以下のように考えれば
・呼吸法に選択肢を作ることができて
・誰でもどの選択肢もやってみることができて
・どれを好むか、良しとするか奏者本人が選ぶことができる
と確信しています。
《呼吸法テスト》
まず、呼吸の基本を定義します。
基本A=「息を吸う」
・息を吸うとき、身体が膨らみます。身体の体積が大きくなります。
基本B=「息を吐く」
・息を吐くとき、身体は萎みます。あるいは縮みます。身体の体積が小さくなります。
応用C=「息を支える」
・息を吐くとき、身体を膨らませたまま保つようにしながら息を吐きます。これを思いっきりやると身体はあまり萎みません。少しだけやると、少しだけ息が出ていくペース=身体がしぼむペースが落ちます。
腹式呼吸
・Aでお腹を主に膨らませる
・Cでお腹を膨らませたまま保つ
・Bの萎みは主に胸に起きる
胸式呼吸
・Aで胸を主に膨らませる
・Cで胸を膨らませたまま保つ
・Bの萎みは主にお腹に起きる
とこのようにまず二つの選択肢を作れました。
どちらも
基本A=息を吸う
基本B=息を吐く
応用C=息を支える
が実行できています。
腹式か胸式かは、身体のどのあたりでそれぞれの機能を果たすかのちがいに過ぎないのです。
であれば、そのどちらもやってみて、どちらか一方がやりやすくどちらか一方がやりにくい場合に、やっている本人以外にどちらかを良い、どちらかを悪いと決める権利はあるわけがないと私は思います。
さて、では選択肢は二つだけなのか?
まったくそうではありません。
要は、身体のどのあたりを膨らませて、そして膨らませたまま保って息を吐いて音を出すか、ということですから、それを胸と腹の2つに分類するのも便宜上のものに過ぎません。
たとえば
喉のあたり
胸の上の方
胸の下の方
身体の真ん中
みぞおちより下
へそ
へそより下
のように膨らませる高さを変えてみればよいのです。
更に、次の4つの選択肢も忘れないでおきたいです。
・そもそも呼吸法を意識しない。
・ただ膨らませ、萎まえ、膨らませたまま保つとだけ意識する。場所は意識しない。
・身体全体を膨らませ、萎ませ、膨らませたまま保つとだけ意識する。
・上記3つに加えて、腹式、胸式、真ん中などあらゆるやり方を好きに使い分ける。
いずれも価値の等しい選択肢であり、どれを好むか、どれを実行するかは全く持って奏者本人の自由に属することのはずです。
特定の呼吸法のみを正解とし、それ以外の呼吸の様子を見せる人の呼吸法を変えさせようとする行為は、実は自由の侵害なのです。
*さらなる参考記事*
【お気に入りの呼吸法を見つけよう!バンドのサウンドもこんなに変わる😳】(動画)
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ここまで述べてきた呼吸法の整理とはまたは別の側面で、呼吸に関する奏法の多様性があります。
それは息の流し方のイメージ・感覚に関することで、
「息圧の感覚」
身体の内側に向けた力の感覚。腹式呼吸なら胸を下や内側へ押す感覚。胸式呼吸ならお腹を上や内側へ押す感覚。息を流す・吐くよりは”支える””溜める”感覚。
「息の流れの感覚」
押す感覚、圧力の感覚はあまり意識していない。息の流れ、息が身体から外へ出ていくこと、身体に圧力や抵抗を作らないこと、素直に息を吐くなどといった意識・感覚。
の好対照のイメージで語られることが管楽器奏法の奏法論の指導や議論においてよくみられます。
私はこれに関しては、後者の「流れの感覚」がしっくりきますが、これもまた間違いなく人によって異なります。
2022年ごろ、まだ私は自分の中にどちらの奏法も混在または共存させていました。
しかし、千葉交響楽団ホルン奏者の大森啓史さんのレッスンを受ける機会があり、そのレッスンの中で大森さんの言葉も惜しげ無く見せてくださる吹奏のご様子も、「流れの感覚」を明確に感じさせてくれるものでした。
そして、それがそのまま入ってくる、模倣できそうな感覚があったのです。
そのレッスンのあとから、私は「息の圧の感覚を作らなくてもいいんだ」そして「息の流れで吹いていいんだ」と自然と思えるようになりました。そのあとから、それ以前より練習も演奏も一つノイズが減ったような感覚で、とても得るものがあるエピソードでした。
どのような奏者がどのような感覚で吹いていると思われるか、ということについて書いた記事がありますので、興味がありましたらご覧下さい。
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次回の記事では、「姿勢」について述べていきます。