初めて出会った、プロの演奏家との思い出

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わたしが初めて出会った、『プロのホルン奏者』は、オオサカ・シオン・ウィンドオーケストラ(当時・大阪市音楽団)の長谷行康さんでした。

たしか中学2年の春だったと思います。

中高一貫校に在学しており、吹奏楽部は中学生と高校生が一緒に活動していました。そのため、先輩には年齢が4つや5つ上のお兄さんお姉さんもいました。

中学生からすると、身体も大きいし、ほとんど「大人」としか感じませんでした。

そんな「大人」な先輩たちの中に、わたしにとってはほんとうに憧れの先輩が二人、ホルンパートにはいました。

いまでは二人ともプロ奏者として活躍していますが、楽器も上手でかっこよくて憧れてあとばっかりひっついて歩いていたその先輩たちが、

「明日は、シオンのハセさんのレッスンだぞ」

と興奮気味におっしゃっていました。

わたしには、「シオン」という言葉も「ハセ」という言葉も当時意味が分からず、先輩に説明してもらってやっと、「プロのホルン奏者」というものが存在していて、そういうひとが明日実際にホルンを教えに学校に来てくれることになっているのだと理解しました。

とてもワクワクドキドキしましたが、いまよく思い返すと、その頃はプロのホルン奏者というものがどういう存在かもよくわかっていなかったのですから、実のところ憧れの先輩たちが興奮していて、憧れの表情で話しをしていることの方に反応していたのだと思います(笑)

さてさて、レッスン当日。

学校から歩いて15分ほどの最寄駅まで、ホルンパートの中学生と高校生全員でお迎えにいったように記憶しています。

駅で出会った長谷さんは、とても気さくな方でした。何より印象に残っているのは、

『見たことない渋い革製のホルンケース』

でした。中学生って、そういうところに目が行くんですよね(笑)

しかも、スクリューベルの楽器だったようで、自分が使っていたワンピースの楽器用の「ホルンっぽい」形をしたケースよりコンパクトで、それもかっこいい、スゲー!と感激していた記憶があります。

いざ、学校に着いてレッスンが始まるとなったとき。

渋い革製のケースから出てきた楽器は、名高きアレキ103!しかも、見たことがない感じにくすんだ色をしている。初めて見る、ノーラッカーの楽器でした。

もうその時点で、「プロってすごいんだ!」とわたしはすっかり感化されていました(笑)

そうこうしているうちに、レッスンタイムがいよいよ始まりました。

そのレッスンでは、何の曲を指導してもらったのか、もう18年前のことで実は忘れてしまったのですが、ふと何気なく、ウォーミングアップのために長谷さんが出した音をじーっと見つめ聴き入ったのをよく記憶しています。

「プロのホルン奏者・シオンのハセさん!」は、楽器を構えた時点で、なんとなくもう楽器を持っているのが中高生とちがって板についていて、雰囲気と風情がありました。

そして、「Bb」の音をポンっと一音奏でた長谷さん。

その音は、当時のわたしにとっては、なんか渋いというか、風格があるというか、いままで聴いたことがない「存在感」のある音でした。

もうこの時点でわたしは「うおーなんかすげー!」とすっかりファンになっていました。

その初めてのレッスンでわたしはなにを習ったか、恐れ多くも忘れてしまっていますが、中学生も高校生も、ひとり数分づつ自分の質問したいことを質問してよいということになっていました。

そのとき、なにを質問したかも覚えてない(覚えてないことばっかりですみません)が、頭デッカチでトンチンカンな質問をしたのは覚えています。それに対しても、優しく親身に考えて応えてくれていました。

この出会いの後、毎年、長谷さんには学校に来ていただいていました。いつもいろいろ尋ねたり、相談したりしました。

ある年はなんと、「バジルくんに聴かせたいと思って」と言って、いろんなホルンアンサンブルやソロの曲をピックアップしてCD-Rに手ずから焼いてくださったのを持ってきてプレゼントしてくれたこともありました。

感激したし、そのCDの中身も素晴らしくて、その年の夏は辛いコンクールの時期(家族が病気になって大変だった年でもあった)をそのCDと当時のガールフレンドの存在を心のよりどころにして乗り切ったのをよく覚えています。

その後、高校を卒業してドイツに留学しましたが、5年の留学を終えて日本に帰国してすぐの頃、家庭不和もあり非常に不安と悲しみに暮れていた時期にふと連絡したら、ご自宅に招いていただいて焼肉を食べるなんてこともありました。

家庭のことを相談というか、その気持ちを打ち明けることはできなかったのですが、いろいろ励ましてくださいました。

初めて出会ったプロのホルン奏者という存在。振り返ってみると、その人との縁というかつながりがいまもずっと続いているというのは不思議です。

ここまで書いてきたように、こんなによくしてもらえて、励まし続けてくれた。

初めてあったプロホルン奏者がこうだったから、わたしの中にはプロのホルン奏者という存在がとても素敵で優しくてかっこいい存在として培われたのだな、と書いていて気付きました。

だからプロのホルン奏者を目指したという面もすごくあるのかもしれない。

プロのホルン奏者になりたい、と思い込んできたんだけれど、本当は「ああいうかっこよくて優しくて素敵な存在になりたい」という気持ちだったのかもしれない。

いまでも、自分より年上の男のひとがホルンケースを持っているひとを見かけると、「あ、どこのオケのひとかな?」とえっらいワクワクしているんです。

余談ですが、2016年、オオサカ・シオン・ウィンドオーケストラの「吹奏楽フェスタ」のツアーに、講座を行う役目で同行するという夢のような機会に恵まれました。

計9回の公演では、アンコールでシオンに混ざって憧れのホルン奏者たちと一緒に演奏することもできちゃいました。

また、熊本慰問公演には奏者として参加することもできました。

公演期間中、内緒でしたが実はずっと長谷さんのウォーミングアップや練習を覗きまくっていました(バレてたかな?)。

少年少女、若者たちにとって、憧れることのできる優しくて立派な大人の存在。長谷さんはとても等身大で接してくれたからこそ、慕う気持ちが続いたのだと思います。

そういう存在は、これからを生きる若い人たちにとって本当に希望になり、生きる方向と力を与えてくれるものなのですね。

自分も、微力ながらそうありたいと願います。

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Basil Kritzer

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