「キャシー・マデン先生との学び備忘録」シリーズ、2014年版。第2弾。
自分全体が、見られ、聞かれ、自分全体で相手全体と在って、見て、聞いている。
キャシー・マデン先生の授業@2014。その最初の授業で得た学びです。
授業を聴講している間、なんとなく身体が硬くて動きづらいなあ、と感じていました。
そのとき、キャシーが、他の参加者に対してレッスンの文脈でこう言いました。
『実際のこととして、ひとがいるところにあなたがいれば、あなた全体が見られているし、聞かれているのよ。見られないようにすることも、聞かれないようにすることもできないのよ』
『事実として、あなた全体が、ほかのひと全体とそこにいる。それが真実よ。協調作用は、事実・真実と手を取り合ってあげることで働くし、そうしないと硬くなるのよ、確実に』
『さあ、みんなこっちに集まって輪になって。それでこうしましょう。頭が動いて、自分全体がついてきて、自分全体が相手全体とあることをを歓迎し、相手全体が自分全体と共に在ることを招待する』
『むかし、わたしはひとに質問されるたびに、自分が頭と脊椎の間を緊張させるという反応をしていることに気が付いたの。もちろん、答えられなかったらどうしようとかいった心配の類いが原因ね。でもね、そこで徹底的に目的に至る手段(deep means whereby)を考えてみたの。そうしたら、そもそも質問に答えることがわたしの義務や責務ではなくて、そのはるか以前に、その相手と自分全体が共にあり、その相手全体を見て、聞くことこそがわたしの仕事だと気付いたの』
このあと、身体があっという間にラクになりました。
….なるほど、自分はそういえば昔からの習慣で、電車の中や外を歩いているとき、「見られないように、聞かれないように」してきたことに気付きました。
外人なので、まず見た目が目立つ。
英語を試そう的なノリで話しかけられたくない。
外人だからという理由で話しかけられたくない。
日本語を読んでいると、驚かれ、ジロジロ見られるのがいやだ。
声を出そうものなら、外人なのに日本語が上手だと驚かれるのがいやだ。
そういう気持ちで、自分自身を硬め、縮め、分断していたのだな、と気付かされました。
授業に来ても、自分の立ち位置と言うか、振る舞いをどうすべきか少し迷いがあったことにも気付かされました。
自分全体が、ほかのひと全体とそこにいる。それが真実なんだなあ。
頭が動いて、自分全体がついてきて、自分全体が相手全体とあることをを歓迎し、相手全体が自分全体と共に在ることを招待しよう。
ホルンの練習も、これでやろうっと。