アマチュアバイオリン弾きの C さんから頂いた質問と、その後のやりとりをご紹介します。
【Cさん】
長年バイオリンを習って来た中で、「肩の力が抜けていない」「体がおかしい」ということを繰り返し指摘されてきました。 自分なりに努力を重ねましたが、意識の上でも実際にも体がバラバラになり、翼状肩甲を発症してしまいました。
一般に文化的なこと全般で言われる、「肩の力を抜く」という言葉はそもそもどういった状態を目指しているのでしょうか。
だらんとする等、いろいろな表現を目にしますが、そうするとすっかり腕と肩が重く・だるくなってしまい、動きを制御できなくなります。しょんぼりした感覚になったり、眠気を感じることもあります。
これは、脱力した状態に慣れていないため、必要な筋肉が育っていないからなのでしょうか。全身の力を抜ききると起き上がることも出来ませんが、こと肩に関しては、動きにくさや不自然さを感じたとしても、限りなくゼロに近く抜けていれば抜けているほど良いのでしょうか。
それとも、このように感じるということは、力を抜きすぎているのでしょうか。
必要な力と無駄な力の違いがどうしても判らず、何度も教師に質問しましたが、「研究してきなさい」と謎かけのようなことを言われるばかりでした。
いちいち立ち止まり肩の力を抜こうとしていては、日常生活がまわらないのですが、間違った腕や肩の使い方のまま一生を終えるのはとても辛いです。どうすればよいのかわからず、体を動かすのが怖く、もう10年来、毎日何時間も悩んでいます。 すっかり心身を壊してしまい、今は楽器は弾いていません。
アレキサンダーテクニークについては大学生の頃に書店で知り、非常に感銘を受けました。今回の件は、もしかすると、アレキサンダーテクニークの主旨からは外れていることかもしれませんが、先生なら何かのアドバイスを下さるのではと思い、メールを差し上げました。
レッスンではこういった疑問に答えていただく事も可能でしょうか。
ご意見をいただきたく質問させていただきました。
【Basil】
この度はメールありがとうございます。
文面のみで正確にお答えすることはできませんが、
まずわたしがよく言っている事は
「肩こりであろうが、力みであろうが、ひとから言われたことでも自覚が無いならそれは肩こりでも力みでもない。問題がない。だから一切気にしなくてよい」
ということです。
なのでもしご自身が力みの自覚がなく、そもそも力んでいるということに悩んでいなかったのなら、きょうからは力みを抜こうということは一切やらなくて大丈夫です。
代わりに、単純に楽器を演奏しましょう。
力みというのは、力の入れ過ぎでだけ起るものではなく、入れなさ過ぎでも起きます。
やろうとすることに対して
・力の量
・力を使うタイミング
・力を使う継続時間
・力を使う方向
・どこの力を使うか
がズレていると、わたしたちはそれを「力み」という形で感知します。
したがって、もっと力を入れることが力みが抜けることにつながることも頻繁にあるのです。
ヴァイオリンで使う力をごく大雑把にいえば
・楽器を持ち上げる力
・弓を握る力
(以上、構え)
・弓の毛で弦をこする力
・弦を指で押さえる力
(以上、発音)
に大別されます。
したがって、これらを「能動的にやる」ところから全てが始まります。そこで「力を抜こう」とすると、混乱が起きやすいのだろうと思います。
アレクサンダーテクニークを用いるということは
①頭が動いて、そうすることで身体全体がついてきつつ
②楽器を構えて
③弓をしっかり握って
④弦をしっかりこすりつつ
⑤左手とを能動的にどんどん動かして望みの音になるよう弦を抑えたり動かしたりして操作する
ということが基礎的なところになります。
それを実体験し、さらに具体化させるのがレッスンで行うことです。
本当に単純に言えば、
「めいっぱい使いたいだけ力を使って、ゴシゴシ弦をこすって奏でたい音を奏でましょう」
というところに行き着きます。
参考になれば幸いです。
【Cさん】
バジル先生、こんにちは。
早速のお返事、ありがとうございます。
こんなにも詳しい回答をいただけるなんて、先生にご相談して本当によかったです。今まで誰かに相談しても、「自分は考えたことがないからわからない」「気にしすぎだ」というようなことばかり言われるだけだったからです。
目から鱗が落ちるようなご意見を、まだ全て理解したとはとても言えませんが、ゆっくりと反芻し、よく考えてゆきたいと思います。
まさにおっしゃる通りだと感じる反面、世の中で相反するような意見が飛び交っていることについて、
もう少しだけ掘り下げてお尋ねしてもよろしいでしょうか。
まず一つ目に、自覚していない力みに対しての脱力は不要だというご意見についてです。
これには心が救われる思いがしました。自分が心のどこかで求めていた答えのような気がしました。ただ一方で、力みは無意識に起こるものなので、自分ではわからない・感じられない場合が多いというような意見を大変よく目にします。
横で見ているプロにしかわからないというものです。そうなってしまうと、もう自分ではどうしようもないという思いになります。言われてみれば確かに力を入れている・入っている。そう自覚できる力みであれば、改善することも可能に感じるのですが、
自分では、もうどこも力んでいないと感じてもなお、力んでいる可能性があるとなると、常に自分が快適であるという感覚よりもへなへなとしていなければならないことになると思うからです。本当に今日から気にしなくてもよいのでしょうか。
アレクサンダーテクニークでも、正しいボディマッピングを学ぶと、自分が普通だと思っていた以上に体が自由になるということも起こるのですよね。そうなると、自分では意識できない力みというものは確かにあるような気もしてきてしまいます。
このあたりに関しては、どのように考えればよいのでしょうか。
また、力みは力の入れなさ過ぎでも起きるということについて。
力が足りないことの問題についてはほとんど論じられることがないので、とても貴重なご意見でした。
部分にせよ全体にせよ、だらだらと意図的に脱力すると、ほかの筋肉が頑張らないとその体のポジションを保てなくなったり、
まるでプールから上がった直後のように体が重たくなり、すごく動きに力がいると常々感じていました。
そういうことについておっしゃっているのかどうかは分かりませんが、いつも疑問に思っていたことを指摘していただけて、少し頭がすっきりする思いです。
ただ、このような感覚を訴えても、「重くなる(特に腕が)=脱力が進んでいる=良い」、ということで、その方向に努力を続けよと言われることも多いのです。
自分が力んでいる・いない、動きやすい・動きにくいと感じる感覚、不自然、重い、いきいきしている・・・等を基準にできないとなると、もう何を信じていいのかわかりません。
ですが、何も楽器を弾く時だけにかかわらず、自分が無意識に行う動作が全て、子供のころに不器用さや筋肉の弱さをカバーするために身に付けた誤った動作なのではと考え出すと、自分の体や感覚が信じられなくなってしまいます。
悪い癖を取るためには、慣れない感じや不自然な感じを乗り越えなければなりませんよね。でも、間違った方向に努力し、体を壊して行っている時にも、同じように感じると思うのです。その違いは、どのようにすれば見極めることができるのでしょうか。
最後に、「力を抜こう」とするから、混乱が起きやすいのだというお言葉についてです。これは私の場合にはとても当てはまっていると感じます。
ですが、「力を抜こう」とすることで、物事が向上する人が多いからこそ、そのような言葉や指導がこれだけ広く言われているのだと思うのです。
なぜそういった人が大半である反面、私のように意識すればするほどおかしくなってしまう人間がいるのでしょうか。
やはり、身につけた動作のすべてか、頭がおかしいのではないかという結論に至ってしまいます。それとも、この差を、才能と呼ぶのでしょうか。
なんだか、屁理屈をこねているような印象を与えてしまったら、申し訳ございません。せっかくの機会なので、先生に頂いたメッセージをより深く理解するために、全ての疑問をぶつけたいと思ったのです。
お時間がございます時に、少しでもご意見をお聞かせいただけると幸いです。
【Basil】
メッセージありがとうございます。
>>>ただ一方で、力みは無意識に起こるものなので、自分ではわからない・感じられない場合が多いというような意見を大変よく目にします。
そうです。
わからない、感じられない、ということは、少なくともその時点では分かる必要も感じる必要も無いからです。
>>>横で見ているプロにしかわからないというものです。
プロの演奏者の方も、もしかしたらわかっていないかもしれません(苦笑)
なにを基準に観察し分析したらいいか、全く知らないからです。演奏家としての訓練や教育に含まれないので、知らなくても何ら不思議ではないですが。
>>>そうなってしまうと、もう自分ではどうしようもないという思いになります。
演奏するスキルと、教えるスキルはそこが決定的に異なるわけです。
教えるという事は
・教わる本人が悩んでいること=自覚しているが改善や前進方法が分からずに困っている事を、確実に前進に向けてサポートすること
・気付いていない、感じていないことでも「もっと上手になりたい」という生徒さんの望みをサポートするために、取り扱うこと。ただしそれは指摘と放置ではなく、生徒さんが「なるほど!こうすればもっと上手になれるんだ!」という手応えと一緒に気付きを持って帰ってもらうようにする
ということなのです。
ただの指摘では、そして確実に役立つアイデアの提供がなければ、生徒を不安にさせたり混乱させたりするだけなのです。
これは「教える」ということを興味と情熱を持って探求している先生でないとできないのが残念ですが現状です。音大で教われないし、そういう良い教えられ方をした経験を持つひとも数少ないですからね。
>>>自分では、もうどこも力んでいないと感じてもなお、力んでいる可能性があるとなると常に自分が快適であるという感覚よりもへなへなとしていなければならないことになると思うからです。
そうなってしまいますよね。
だから、「自覚のある力み」こそが大事なのです。
それは「かけがえのない情報」だからです。
>>>>一方、「力んでいるかもしれない」というのは不安でありある種の妄想ですから、わたしたちの力を奪ってしまいます。
もう気にする事はありません。力んだときにはじめて、そのことを観察すればよいわけですから。
>>>>>アレキサンダーテクニークでも、正しいボディマッピングを学ぶと、自分が普通だと思っていた以上に体が自由になるということも起こるのですよね。そうなると、自分では意識できない力みというものは確かにあるような気もしてきてしまいます。
起りますし、あります。
しかしそれは「力み」を主眼にしているのではなく、
「思ってたい以上にもっと自分は自由に上手に演奏できるんだ!」という発見の瞬間であり、それはネガティブなものではありません。
>>>>部分にせよ全体にせよ、だらだらと意図的に脱力すると、ほかの筋肉が頑張らないとその体のポジションを保てなくなったり、
まさにその通りです。
素晴らしい観察をされましたね。
>>>>ただ、このような感覚を訴えても、「重くなる(特に腕が)=脱力が進んでいる=良い」、ということで、その方向に努力を続けよと言われることも多いのです。
自分の提供したアイデアが逆効果になっていることを受けとめ、アイデアを変える、ということをやるには、教えるひととしての自覚とスキルがかなり求められます….
>>>>自分が力んでいる・いない、動きやすい・動きにくいと感じる感覚、不自然、重い、いきいきしている・・・等を基準にできないとなると、もう何を信じていいのかわかりません。
音を奏でたい!という情熱と、「あ、こんな音がなった!」という体験、そして「なんだか楽しかった、なんだか楽だった、なんだか新しかった」というような印象が基準です。
>>>>悪い癖を取るためには、慣れない感じや不自然な感じを乗り越えなければなりませんよね。
癖は、消えないものなので、消す努力はしなくて大丈夫なのです。
やりたいことは
「奏でたい音を実際に自分が奏でるための『演奏スキル』を試行錯誤と取捨選択を通じて一歩一歩積み上げていく事」
です。
>>>>>ですが、「力を抜こう」とすることで、物事が向上する人が多いからこそ、そのような言葉や指導がこれだけ広く言われているのだと思うのです。なぜそういった人が大半である反面、私のように意識すればするほどおかしくなってしまう人間がいるのでしょうか。
うまくいっているとき、主観的には「ラク」な感じがします。
力みがないからです。
そこで、その「力みがない感覚」を作ってしまおうとして、脱力をしようとしはじめてしまいます。
しかし、うまくいったのは脱力ではなく「適力」のおかげなんですね。すごくラクで力みはなかったかもしれないけれど、ものすごく力を使ってはいたかもしれないのです。
結果として体験した感覚を再現しようとすると、混乱しやすくなります。
「うまくひけた」という結果に着目し、そこにいたる過程=具体的なアクションを理解し、それを実行していくようにするわけです。