わたしのアレクサンダーテクニークの大事な先生のひとり、キャシー・マデン先生 (いままでどんなことを学んできたかはこちら) と、スカイプセッションをしました。
「練習」という言葉を置き換えた方がいいかもしれない、という提案が心に残りました。
「練習」という言葉には、音楽をするひとが陥りやすい罠があります。わたしも考えてみると、15歳のときからずっと陥っている気がします。ここが、プロ奏者になるかなれないかの境目ですらある気がしました。
キャシー先生は、いまもワシントン大学演劇学部で演劇監督もしている、演劇畑出身のアレクサンダーテクニーク教師ですが、演劇での世界では常に「だれかに見てもらう/聴いてもらう」状態で稽古をしているとのこと。
初心者でもプロでも、それぞれの知識やレパートリーやスキルの範囲内でそうなっているとのことでした。
そもそも演劇ではほとんどの場合「誰か」と関って演じている。技術を身に付けるのも、本番の準備をするのも、共演者や監督の存在がその場にある中で進んでいく。
なので、細かい台詞や表現の技術を磨く過程でも、常に「パフォーマンスを捧げる相手」がいるとのことでした。
そこを音楽家は忘れやすい。
聴いてくれていて、音楽を共有する「他者」がいない状況でひとりきりで「練習」をすることが多いので、音楽をするひとはプロアマ問わず、聴いてくれているひとや音楽の中身を「練習」から切り離してしまいやすいとのことでした。
「練習」という言葉自体が他者との断絶を意味するところまで行きがち。
「いつでも、誰かを Invite して、音楽の意味を共有するために、音階でもアルペジオでも『演奏』として取り組む必要がわるわね」
と言われました。
すごく納得。
15歳のときから10年以上、「練習」という言葉で「籠る」「断絶」をやってしまっていた。これから変えていきたいと思います。
追記 2014.8.6
このレッスンから1年が経ちました。はじめはかなり戸惑いがありましたが、練習を「練習」ではなく「演奏」だと捉え直すようにしはじめてから、段々と音楽や演奏が、(あたりまえなのですが)創造行為、芸術行為であることを改めて感じ取っています。
いま、練習へのやる気があまり感じないときや、どんな練習をしたらいいか分からないときでも、聴衆を想定し、その聴衆とともに自分がホルンの音を使って意味を創り出すんだ、と考えると、すぐに良い練習ができるようになっています。
アレクサンダーテクニーク教師として、芸術と、芸術をするひとに貢献し、それを通じて世界に奉仕することをもっと深めていきたいと思っています。
ピンバック: あがり症克服のためのトータルプラン〜8つのステップ〜 | バジル・クリッツァーのブログ