最近取り組んでいる、「ひとりで吹いているときも、技術的なことに取り組むときも、聴いてくれているひとのことを思い、音楽として演奏する」という方法。自分自身に対しても大きな揺さぶりになっています。
「自分のこの程度の能力は聴いてもらうに値しない」という古くからの信念を刺激するからです。
実質的にはこのアイデアではるかに練習の効率が良くなりました。
どんな技術的な問題も、「どう聴こえてほしいか」「どんな音楽なのか」というより大きな「枠」の中に収まり、技術という妄想の森のような世界に埋没しなくなるからです。
でもずーっと抱き続けて来た信念を刺激するのでいまけっこう大変。
「聴いてくれているひと」や「空間にどのように響いて、どのように聴こえてほしいか」「音楽の中身」を思いながらやっていると、ミスや不安定なところが出るたびに、
「こんなのじゃダメだ、ひとに聴かせられない。自分がやる意味がない」
というとーってもネガティブな思考が涌き上ります。
このネガティブな思考、たぶん中学高校の吹奏楽部時代を生き抜くうえで身につけたんだと思うんですが、そのまま温存させてしまったんでしょうね….。
ずーっとその信念を抱き続けてたんだ。ずーっと使い続けていたんですね。
新しく取り組んでいるアイデアが、古い習慣・信念を白日の下にさらす、という。
前から同じ事をしていても、いちどそれに自覚が生まれると、すごく気になってくる、前よりもっとやっている気分になってくる(実際は気付きが高まっているので減っている)、これアレクサンダー・テクニークのレッスンでしょっちゅう起きること。
癖・習慣・信念のデカイのに当たると、なかなか大変。
「こんなのじゃダメだ、ひとに聴かせられない。自分がやる意味がない」というネガティブな思考・パターンを、これからどう「ケア」するかというところが、これからキャシー・マデン先生から学んでいきたいこと。
いまできることは、例の古いネガティブ信念が湧いたそのときに、
アレクサンダーテクニークを使う=『頭を動けるようにしてあげて、自分全部が動けて、聴いているひとを invite して、音楽の意味を想って、吹く』
という「新しいプラン」を使い直すということ。これで確実に変わってはくるから。
音楽家としての自分を常に損ね、ブレーキかけ続け、行き詰まらせて来た根本的な原因が、
「こんなのじゃダメだ、ひとに聴かせられない。自分がやる意味がない」
という古く・深く・強い信念であることがいま明確になってきた。
それと本当に向き合うこれからは、とても大事な発見がつながっていくだろう。
この信念、かなり普遍的なものだと思います。
僕は学生オケ時代に「何ヶ月も同じ曲を練習して、出てくる音楽はウイーンフィルが3日練習したような演奏には絶対にならない。あまり価値のないことに膨大なエネルギーを投入しているのではないか?」という悩みを佐渡 裕先生に相談したことがありました。佐渡先生は言下にその考え方を否定されて「ウイーンフィルが3日練習しても、君達が何ヶ月か練習したような演奏にはならない。君達には君達の存在価値がある。」とおっしゃって下さいました。その考え方は今でもオケで演奏する時の心の拠り所になっています。他方、その考え方を自分という個人プレイヤーにまで拡張すること無く、これまで過ごしてきました。自分は人とは違うのだから、何か人と違う演奏が結果的に出てくるはずで、それは何らかの価値のあるものであるはず、と信じたい。(けど、なかなか信じられない。)この自己否定のセンスについて、僕も考えていこうと思います。ヒントは演奏会に来てくれるお客さんにあるのかもしれません。
伊藤さん
素敵なコメント、ありがとうございます!
佐渡さんの言葉、すばらしいですね。そして、言葉だけでない本気の確信が伝わってきます。
自己否定は、日本では「謙遜の文化」という美しい文化・精神性と混同されやすいのかもしれません。
考える価値に富んだテーマですね。
バジルさん、私はこの5月にキャシー先生やバジルさん、アレキサンダーに出会って今までの自分とはまるで違うところにいます。
先日、私のプロデュースをしてくれてる、私が最も信頼を置いてる人に久々にリハーサルしてもらったら、その変化を感じてくれ、さらにどの方法で在ればいいかアドヴァイスももらえたし、びっくりすることにアレキ中、バジルさんの言葉に影響され自分で吐いた言葉を音から感じ取ってくれました。
音というのは本当に恐ろしい。舞台というのは、逃げることのできない場所。だから中途半端は命取りだなってつくづく思いました。
アレキに関われたことで、自分がどうありたいのか、どんな舞台を作りたいのか、どんな世界に聞いてくださるお客様をinviteしたいのかが、はっきり言葉になりました。これは、今までの漠然としたものとは明らかに違います。
今までの迷いも吹っ切れました。
私は、バジルさんより経歴もないし、実力もないけれど自分に演奏する価値はないとは、二度と思わないでしょう。それは生き様だから。
バジルさんは、とても真剣に自分と向き合っているのだから、それだけは確かだから、、そこに誇りを持ってるだけで、音がそれを証明してくれると思います。
いい演奏とは。
人は演奏のどこを聞いているのか
など、答えなど見つかりませんし、人それぞれだと思いますが、真摯に向き合ってるならそれだけで、とても大切なものが伝わるものです。
少なくとも、バジルさんは、真剣に自分と向き合って舞台に乗る人の音を聞いて、この人の音は聞く価値のない演奏と、思う人ではない気がします。
そんな風に人の音の上っ面しか聞いてない人は、実はそんなにいない気がします。伝わるもの、人の感性ってすごいですよね
アレキと離れたところで、バジル・クリッツァーさんのホルンを聴けるのを楽しみにしてます。演奏会の案内、くださいね。
よろしくお願いします。
わたなべさん
頂いたメッセージ、ストレートに伝わってきます。
ありがとうございます。
聴衆と自分の関係を意識して音楽に取り組むことをイメージしたとき、私は心と身体にこわばりを感じます。理由はこの稿でのバジルさんのお話と同様に、「私にはは聴衆を満足させられるような資質は持っていない」という思考になるため。
私自身結構なあがり症ですが、その主要因となっている思考だと思っています。
「辛らつで批判的な」聴衆モデルを自分は抱いてしまっているな、と思います。
また、自分を省みて、自分自身がそのような聴衆になってしまっているのではないか、とも。
裏を返すと、聴衆に喜んでもらいたいというサービス精神が自分にあることにも気づきました。(ここでフッと楽な感じに少しなりました)
MN さま
仰っている事、よく分かります。
わたしも私自身の最も辛辣な批評家です。
そうすると、全てが怖くなってしまいます。
「私はサービス精神がある聴衆に満足してもらえる」
という「逆もまた真なり」が見つかりましたね♪
「練習」を「演奏」として取り組むのをこの週末個人練でやってみました。そこで、気づいたこと。
・演奏モードにすると結構緊張する ⇒ 普段パート練習・分奏・合奏でも緊張していたが、これは「演奏モード」で取り組んでいたから ⇒ それはむしろ良いこと(これまではパート練習から緊張してしまう自分を情けなく感じていた)
・自分で聴衆を招いてよいのだから、わざわざ批判的で強面な聴衆を招かなくても良い。建設的で乗りの良いお客さんをイメージして招いてみると、案外楽しく演奏モードを進められる。
・実際、パートメンバーの居る雑居部屋で個人練をしましたが、何故か声をかけられる(フィードバックをもらう)回数がいつもより多かった。演奏モードの影響かも?
MNさま
コメント読んでいて、とにかく首肯の連続です。
その調子です!