フォームを変えるときに分かっておきたい「からだ」の現実

フォーム。演奏を趣味であれ職業であれやっている人にとっては色々な「思い」「連想が」働く重要なキーワードです。

弦楽器を演奏するひとなら、弦に触れる指の形やボーイングの腕の角度。管楽器を演奏するひとなら、何と言ってもアンブシュア(吹いているときの唇やその周辺の見た目の形)が大きな関心ごとになっています。

奏法の研究から、力学的にみてより効率がよいとされる「フォーム」や、流派・スタイルの中で継承されているフォームもありますね。比較的真剣に打ち込むようになると、この「フォーム」を変えたくなることや、変える事を勧められること(残念ながら「強制」されることもありますが…)、、変える必要が生まれることがあります。

しかしフォームの変更は私たちにとって死活問題、大きな賭け、危険と感じられることが多いです。実際私もドイツのエッセン・フォルクヴァング芸術大学に入学して間もなくアンブシュアの変更をすることになり、その際にあることを理解していなかったため非常に苦しい回り道をすることになりました。

ちなみに金管楽器の世界だと、驚くほど数多くの学生がアンブシュア変更を試した結果、演奏能力を失ってしまい再起できずにキャリアを断念しています。これは非常に痛ましい現実です。

身体は全体として成り立っている

なぜ、そんなにも危険なことを指導者は学生にさせるのか?それは、指導者から見て「フォーム」というある一部分や見た目の形が機能していないことは分かるからです。そして「良い」ということになっている「フォーム」に変更した結果、演奏技術上の問題が解決してそのままプロになっていく学生も一定数ちゃんと存在しているからです。

確かにプロを養成する責任を持つ指導者としては、一部分に見受けられる機能不全を矯正し、プロを送り出す可能性を持つ「フォーム変更」を学生に勧めるのは自然です。しかし、学生からすると、「賭ける」というのはあまりにもリスクが大きすぎます。一部のひとしかうまくいかないことを、自分の演奏能力を「犠牲」にしてまでやるという選択はあまりにも無謀であり、失敗したときに何の救済もなく手立てがなくなてしまいます。

重要なのは、どうしてうまく行くケースと大失敗に終わるケースがあるのか、ということです。

それは 身体は常に全体として成り立っている という事実から答えが見えてきます。人間は、部分を組合わさればできあがるものでも、パーツの集合体でもないということ。

フォームやアンブシュアの「矯正」という考え方は、実は「部分を変える」という発想にあくまで基づいていることがほとんどなのです。手の形、ボーイングの形、アンブシュアの形。それらをいずれも「その部分」として捉え、(いずれも演奏に直結している領域であるからこそ)その部分を改善したり変更したりすれば良くなるはずだ、という考え方です。なおこの考え方は、ごくごく一般的であり浸透したものです。ほとんどの人がごく当たり前のこととしてこの考え方を自覚のない深いレベルで持っています(私自身の中にも、まだまだそういう考え方が残っていることに気付かされることが頻繁にあります)。

しかし、この考え方が「当たり前」だからこそ、この考え方に基づいたフォームやアンブシュアの矯正は失敗や苦痛をもたらすケースが多々ある現実を私たちは知っているのです。

身体は全体として機能している−。不慣れな考え方であるが故に言葉にしてもピンと来ないかもしれません。そこで、「全体」としてフォームまたはアンブシュアの変更を考えるとはどういうことか、逆に「部分的」な考えのときはどんな意識になっているか、なるべく私たちの実体験に入り込んで見ていきましょう。

さっそく具体的な提案をしたいと思います。

「全身を意識する」と心に決めて、フォームの部分を意識する

フォームやアンブシュアという身体のある一部分を変える事は可能です。しかし、部分だけを意識しているとなかなか望む変化が定着しないかもしれません。なぜなら、それまでその「部分」を使っている間も常に「全身」がその部分を支え、含み、影響を与えていたからです。

なので、その部分を一生懸命意識している間がなんとかコントロールや変更を維持できても、気を抜いた途端元に戻ってしまうー。そんな体験をお持ちではないですか?あるとすれば、気を抜いた途端にその部分を含んでいる「全身」が勝ってしまい、部分は「全身」の元々のパターンに戻っているからです。

ちなみに、フォームやアンブシュア変更がスムーズにできうまく行っているケースは、その部分の変更が幸運にもすぐに「全身」にはまるときです。最初から部分と全身の連動がうまいひと=身体の協調作用の良い人たちです。

もともとの上手いヘタで決まってしまうのだとしたら、あまりにも希望がありません。どんな努力も才能の前には無意味、ということになってしまいます。情熱や愛があるのに簡単に才能の有無や上手いヘタで断念させられてしまうのでは、まだまだ伸びる可能性のあるものを切り捨ててしまっていて、集団や社会、文化にとっても損失です(ちなみに、まさにそれ故に教育における競争原理の最優先化には明らかな限界と危険、欺瞞があるのです)。

アレクサンダー・テクニークの創始者 F.M.アレクサンダー が発見したことは、人間はこの「全身の協調」を意識的に用いることができる という能力を有していることでした。その発見を実用化し体系化したのがアレクサンダー・テクニークという手法になったわけです。

アレクサンダー・テクニーク教師としての私の提案は、

1:まず全身を意識する
2:全身を意識することを続けながら
3:変えたい部分のことを意識する

という方法です。

全身を意識するってどういうこと?と思うかもしれません。難しそう、と感じる気持ちはよくわかります。でも難しくありません。

フォームやアンブシュアを意識している時、まさにその部分を意識していますね?それはみんな簡単にできています。全く同じ要領で、「全身」をいっぺんに意識すればいいのです。簡単です。

すみずみまで、とこだわる必要はありません。全身を意識しようと決めて、意識してみようとすればいいのです。そうすればより全体に意識が拡がります。

ここから先が、あまりやったことがないかもしれないところ。

全身を意識しながら、部分を意識するのです。全身を意識しながらフォームなりアンブシュアなりを意識する。このときいつもよりフォームやアンブシュアへの意識が「足りない感じ」はあるかもしれません。でも大丈夫、全身を意識しながらフォームやアンブシュアを意識しようという「意図」を持っていてそのように思考していれば大丈夫です。

意識できているかどうか、ということが気になるかもしれません。しかしこれもまた心配ご無用。意識はどれだけしても「しているかどうか」は分からないからです。意識できている感覚、ものもあらかじめどんなものかは分かりません。なので、やはり「全体を意識しながら部分を意識しよう」と「意図して」そうしようとしてみてください(注意!実際に楽器の練習をしながら、音を出しながらやってくださいね)。

この方法でやっていると、不思議なことが起ります。

なんだかフォームやアンブシュアの変更が「しっくり」してきたり、スムーズに感じたり、全体的にうまくいっているように感じられたりします。

なぜか?

私たちが最初から「身体が全体として成り立っている」からです。もともとそういうものなのですから、それに沿った方法を取れば、自然とうまくいくのです。

読んでいてもぼんやりとしてよく分からなくて戸惑ってしまうひとも多いかとは思います。しかし、注意深く書いてある事を実行してみてください。必ず意外な展開があります。

どうしても分からない、というひとは実際にわたしのレッスンを受けてみるのが早道かもしれませんが、まずはひとりでお試しあれ。

それでは幸運を祈ります!

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フォームを変えるときに分かっておきたい「からだ」の現実」への1件のフィードバック

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