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ドイツの学生時代、あらゆることが行き詰まって挫折し、もう学校を辞めてホルンも諦めようかと思っていた時期がありました。そのどん底の時期に、「辞める前にやれることはやってみよう」と思い直し、訪ねたのがホルン奏者でアレクサンダーテクニーク教師のウルフリード・トゥーレさん。
今回は、そのトゥーレさんに、学生時代は聞きそびれたことをたっぷりインタビューしました。その第2回です。前編はこちら↓
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【第2回〜楽器を演奏していて、初めて身体が「ラク」に〜】
バジル
『スイスのバーゼルでアレクサンダーテクニークの専門的トレーニングを始めたとのことですが、その数年あるトレーニングの期間中は、いろいろなところに行って仕事をされていたのですか?』
ウルフ
『そう。ドイツだと月あたり200ドイツマルク(当時)で国内をいくらでも移動できる電車の切符を買って使えたから便利だったね。生計を立てるために、あちこちに出向いて仕事をしたよ。』
バジル
『それらは、主に教える仕事ですか?』
ウルフ
『そう、主にプライベートレッスンだったね。ソロの演奏の仕事もあった。各地のオーケストラのエキストラや代奏もした。』
バジル
『ちなみにお生まれは何年で、最終的に卒業した大学はどこだったのですか?』
ウルフ
『1960年生まれで、1987年に、ハンブルク音大の教育科を卒業したよ。当時はハンブルク音大(Musik Hochschule Hamburg) 、いまはハンブルク音楽・演劇大学と名前が変わっていると思う。』
バジル
『ハンブルクでも演奏活動はされたのですか?』
ウルフ
『数回、ハンブルク州歌劇場管弦楽団のエキストラに行ったよ。シノーポリの指揮でベルリオーズの作品をやったことがあって、作品中に出てくるブラスバンドを実際に舞台袖でブラスバンド編成で演奏して表現したのがとてもクールだった。彼の音楽のアイデアは独自でとても良いと思ったよ。』
バジル
『ここまで振り返ると、ホルンの師匠・先生たちとの関係でかなり苦労されているのが分かります。』
ウルフ
『そうだね‥本当にいいな、と思えた最初のホルンの先生が、ようやく出会ったナイジェル・ダウニング先生だと思う。』
バジル
『そのときはもう27歳くらいだったわけですね。』
ウルフ
『むしろ28くらいの時期だったね。』
バジル
『では、ちょっとここからアレクサンダーテクニークについて伺っていきたいと思います。
あなたにとって、音楽家としてはアレクサンダーテクニークはどのような恩恵をもたらしましたか?』
ウルフ
『1983年にスウェーデン人の理学療法士ゲルダ・アレクサンダーのクラスに行ったつもりが、間違えてアレクサンダーテクニークのクラスに行ってしまったのが最初なんだ(笑)
アルヴィン・マークリーとその夫人が教えていたコースだった。夫人はいまでもチューリヒでアレクサンダー教師養成校を運営している。
アレクサンダーテクニークのレッスンを受けると、演奏するのが身体的にラクになった。そういうことは、ホルンの先生たちとのレッスンでは経験しなかった。凄かったね。
そんな僕を見ていてか、ある人に「そんなに役立っているなら、専門的に訓練を受けるといいんじゃないの?」と言われて、それもそうだと思い教師養成校に入ることにしたんだ。
そのためだけにスイスに行くのは嫌だったから、当初はドイツのフライブルクにあった学校に行きたかったんだ。それでフライブルクの学校を見学に行ったんだけれど、空きがないと言われて、でもスイスのバーゼルの学校ならねじ込めると言われた。それでバーゼルの教師養成校に入ることになった。
その頃個人的にはかなり、あがり症に悩まされていた。緊張してすごく震えてしまうんだけれど、緊張のどこまでがホルンの演奏に必要でどこからが不必要なのか、なかなか分からずにいた。当時は、そうやって「どこからどこまでが必要で、どこからが不必要か」といったような問いの立て方もできなかったから誰にも質問できずにいた。ただただ、「この震えは嫌だな」くらいにしか考えることができずにいたんだ。
バーゼルの教師養成校はアレクサンダーテクニークの伝統的・正統的なスタイルのものなんだけれど、そういう学校ではあまり言葉のやり取りをしない。だからやはり、教師養成校でもこの問題について質問をすることができなかった。
満足できる形でこの問題を扱ってもらうことはなかった。
ぼくはこの学校を卒業して、STAT=アレクサンダー・テクニーク教師協会の正式な免状持っていて、この免状には F.M.アレクサンダーの4つの著作を理解しそれに基づくレッスンを行う、と記されている。ただ、この学校ではこれらの本を読むことは一度もなかった‥‥それを以ってこの学校の価値を貶める気は全くない。しかし、メソッドの基礎となる考えを知らずにそれを教えるということは、この学校の一面を伝える面はある。
個人的にも身体がラクになるなど恩恵はあった一方で、この頃のわたしはアレクサンダーテクニークとホルンは別物としてしか学ぶことができなかった。
そうやって、演奏とこのメソッドをつなげられずにいながらもレッスン活動を続けていた1991年に、ドン・ウィードに出会った。最初は6時間、彼の英語でなされる授業に参加したんだけれどヘトヘトに疲れたよ!(注:ウルフさんはドイツ人)。
疲れたのは英語もあるけれども、それだけじゃなくて、すごく考えさせられるんだ。自分の当時の思考力の限界まで考えさせられたよ。
✳訳注✳︎
ドン・ウィードについては
英語のサイトこちら
日本語のサイトこちら
』
バジル
『あがり症の問題というのは、最初のトレーニングで改善したのですか?』
ウルフ
『いや、特段その問題を扱ってもらうこともなかったから、進展はなかったよ。
でも当時のわたしは、アレクサンダーテクニークの勉強をするために教師養成校で学んでいて、いつかレッスンをするためにやっていたわけではなかったから、音楽家としての問題が改善しなくても特に気にしなかった。
もし当時、「音楽家のためのアレクサンダーテクニーク」というものがあって、あがり症などの問題を扱うクラスなどがあったとしたら間違いなくそっちに行っていただろうね。
でもいま、アレクサンダーテクニークの教師になってすごくハッピーだ。レッスンをするのがすごく楽しい。ホルンの演奏より好きだね。
ホルンの音にはいまでもすごく惹かれるし、ホルンの音を聴くと、もっと近くに寄って見て、いろいろ知りたいという欲求が生まれる。
でも、わたしにとっては美しい音を世界に向かって出すこと、美しい音を当たり前のように期待されること(それがプロ演奏家として当然のこと)より、ひとと直接話をしながら意見や考えを交換して進めていくレッスンというものの方が魅力的なんだ。毎日毎日、美しく演奏することは当たり前で、目立つのはダメな演奏をしたときだけ(笑)という演奏家生活はわたしにとってはあまり魅力を感じないんだ。たぶん、わたしという人間の本質が演奏家生活とは異なるものに向いているんだろうと思う。だからいまの生活がハッピーだよ。』
バジル
『確認なのですが、いちばん最初に受けた数回のアレクサンダーテクニークのレッスンは、良かったしあなたの演奏に役立ったわけですね?それでもっと学んでみたいと?』
ウルフ
『そう、その通り。』
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第3回【生徒の論理的能力を尊重する教え方】へ続く
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