【歌の先生のおかげで、音域が5度広がる!】

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先日、翻訳を完了し秋に出版予定のナイジェル・ダウニング著“Singing on the Wind〜Aspects of Horn Playing~”。直訳すると「息に乗せて歌う」

著者のナイジェル・ダウニングに師事した人のひとりに、わたしのアレクサンダーテクニークとホルンの先生であるウルフリード・トゥーレさんがおられます。

トゥーレさんとの出会いや学びについて詳しくはこちらの『脳みそが「なるほど」と実感するレッスン』に書いていますが、とてもとても助けられた一方で、トゥーレさん自身のことを師事していた学生時代の当時は余裕がなくて伺いそびれたことがたくさんありました。

《トゥーレさんに、インタビュー!》

そこで今回は、トゥーレさんに聞きたかったトゥーレさん自身の生い立ち、ホルンの学び、アレクサンダーテクニークとの邂逅などをたくさんインタビューすることにしました。

英語のインタビューを日本語で書き起こしました。

◎ 質問攻めで師匠を困らせる学生であった頃のこと
◎ 自分で考え自分で成長するために、多くの先生を渡り歩いたこと
◎ 自律的な上達にこそ価値を見出していること

‥‥などなど、どうしてぼくはこのひとのレッスンがいちばん効果的で助けられたのか、最後にレッスンを受けてから10年経ったいまになってインタビューしてみたおかげで腑に落ちたました。

盲従や支配的な師弟関係に違和感を持つタイプの方には特に、示唆に富む内容だと思います。ぜひお読み下さい



【第1回〜歌の先生のおかげで、音域が5度広がる!〜】

バジル
『ホルン、あるいは音楽との出会いはどんなものでしたか?』

ウルフ
『父も母もピアノを演奏できたんだ。父については、「演奏できるんだ」という話を聞いているだけで実際に弾いているのを聴いたことはないけれど(笑)。母はいつも弾いていたよ。

母は1929年生まれで、終戦のころからピアノのレッスンを受けるようになったらしい。ドイツ・ウェストファーレン州の大学のピアノ教授から学んで、自分の合唱団を作って指揮したりしたんだって。

わたしが生まれた頃には、ピアノの演奏はしょっちゅうしていたけれどそういう活動はしなくなっていたね。

わたしには一人兄がいて、彼もピアノを演奏するのが好きでレッスンを受けていたし、わたしも4歳頃からピアノのレッスンを受けるようになった。

それで、もっと後になってチェロをやってみたくなったんだ。でも優しい祖母が「チェロを買うのは高いから、この子にはギターを買って与えてあげましょう」と言うんだ。結局もらったギターはまったく触らなかったけれどね(笑)

その後、郵便局(ドイツ語でPostamt)で働いていた父が、信号ラッパ(post signals)の演奏を録音したシングルレコードをある日家に持って帰ってきたんだ。ホルンというより、トランペットの音に近いし、楽器としてもトランペット寄りなんだけれど、ホルンとの出会いはそれだったと言えるかもしれないね。

それでホルンに興味を持つようになって、ホルンのレッスンを受けるようになった。16歳の頃かな。最初の先生は、なかなかの変わり種のギリシャ人で、当時ボンのベートーヴェン・ハレ管弦楽団で演奏していたアレクサンダー・ツァンガース(Alexander Zangas)という人だった。彼とのレッスンである程度までは演奏できるようになった。

そのうち兵役の時期になったから、軍楽隊ブラスバンドに応募したんだ。幸い入隊できたんだけど、比較的家の近くの地域に配属されるはずが話が変わってしまってハンブルクの方に行くことになってしまったんだ。

15ヶ月の兵役を終えた後、生活していたハンブルクで音楽大学に入り次に師事したのが、ハインリヒ・ケラー(Heinrich Keller)という先生。ハンブルク州歌劇場管弦楽団のソロホルニストで、素晴らしい奏者だった。当時55歳くらいだったんだけれど、本当になんでも演奏できるひとでなかなか凄かったね….。

でも教師としては、あまり観察に優れていなかったんだと思う。先生自身の考え方を知ることはできるんだけれど、自分もその考え方に馴染んでいて、有効活用できるレベルになっていないと当てはめられない面があって、わたしはすこし停滞してしまった。

わたしはケラー先生の考え方に合わせていなかった。彼にとっては過剰に質問をしていたし、瑣末なことにこだわってしまっていた。

また、当時のハンブルク音大のホルンのクラスでは悪いタイプの競争が過剰になってもいた。自分の実力以上に自分の演奏の凄さを吹聴し合うような雰囲気があってね….。それもわたしにはあまり助けにならなかった。

18歳の頃のことだね。』

バジル
『最初のツァンガース先生は、どんなひとだったのですか?』

ウルフ
『彼は古き良きオヤジ、だったね(笑)。やるべきことは、師匠たるワシが知っておる。弟子は質問せず、やれと言われたことを黙ってやるのだ!というスタイルのね。

大人になった今振り返ると、教え方として良いものとは認められないね。』

バジル
『子供だった当時は、ツァンガース先生のレッスンは楽しかったですか?』

ウルフ
『ホルンを吹くのは楽しかったよ。

ツァンガース先生にあまり質問はしなかったな。

16歳で、初めて習うわけだから、そういう生徒はまだまだ真っ白・まっさらなんだ。そうすると、特段批判的な視点を持っていない限り、先生に対してあれこれ質問することはないよね。わたしもそうだった。

レッスンとはこういうもの、これでいいんだ。当時のわたしはそう思っていたよ。

ただ、ハンブルク音大の入試の試験成績をずっと後になって見たとき、ずいぶん点数が高くて、そんな評価をもらうほどの演奏ができていたとはいまでもちょっと思えないんだけれど、もしそうだとしたらツァンガース先生のおかげの面はあったのかもしれない。』

バジル
『その後、どのようにホルンの学びは進んでいきましたか?』

ウルフ
『大学に入ってから、ヤン・ヘンドリク・ロータリンク先生(Jan-Hendrik Rootering)という声楽の先生に習うようになった。素晴らしいバス歌手だった。

歌を習うというより、息の使い方を教えてくれた。すると、習い始めてわずか4週間で音域が5度広がったんだ。ハイGまでちゃんと吹けるようになった。凄かったよ、だってそういうレベルの進歩はホルンの先生たちは一人も手助けすることができなかったからね。

その後、結局ダブルハイBbまで吹けるようになった。こないだ君がYoutubeに載せていたダブルハイFだっかな、それには敵わないけれどね(笑)あれはクレイジーですごかったね!

彼とはもっと長く学びたかったんだけれど学校を離れることになって、「彼も良い指導者だから」ということで息子さんを紹介してくれた。

そのうち、アブ・コスター先生(Ab Koster)がハンブルク音大に赴任して来た。でも残念ながらコスター先生とは考え方が合わないことが明確だった。

これはコスター先生の批判や悪口ではなくて。

その頃にはわたしにはわたし自身の考え方や、音への興味の持ち方質問の仕方を発達させていた。それにコスター先生が合わせることができなかったとも言えるし、わたしがコスター先生の教え方に適応することができなかったとも言えると思う。

それで、新たな師匠を探し求めるようになった。

当時エッセンにいたウォルフガング・ウィルヘルミを訪ねたこともあったし、シュトゥットガルト州歌劇場管弦楽のマヒール・チャカールのレッスンを受けたこともあった。

当時から有名で、「一度はレッスンを受けるべき」という存在だった、エーリッヒ・ペンツェルのレッスンも受けたよ。ハンブルクから深夜3時の電車に乗って、ケルンに8時に着いて、9時にレッスンに行くというのを何度か頑張ったんだ。

でも、そのうち数回、行ってみたら「きょうは君のための時間はない」と着いてから言われてね。何時間も旅して行くのは分かっているんだから、夜に電話してくれればいいのに…。そういうことが何回か続いたから、いくら有名な奏者で先生でも、気に入らない人に対してそういう振る舞いをしてしまうのは、人間の行動としてダメだなと思ってガッカリしたよ。

最後は、レッスンで演奏したら「あら〜ウルフ君、すごい上手じゃないか!ホルンが演奏できるんだね〜」と言われて、彼は悪気はなかったというか本当にそう思って言っているんだけれど、これだけ待たされてようやく言うのがそんなことというのはあまりに失礼だからそれっきり行かなくなってしまったよ。

それからも何人かの先生を訪ね歩いたよ。

それで26歳頃に、スイスのバーゼルに行ってアレクサンダーテクニークのレッスンに参加するようになった。

スイスに行ってから、アルベルト・クリンコ(Albert Klinko)、大切な師となるナイジェル・ダウニング(Nigel Downing)、ナチュラルホルンのトーマス・ミューラー(Thomas Müller)という先生達から吸収するようになった。3人とも素晴らしい奏者だ。

その中で、いちばん充実したのがナイジェル・ダウニング先生だった。それまで出会ったことのないような、「音の聴き方」の教育をしてくれた。もっともっと、「どのように聴くか」を学びたくなったよ。

実際に出している音をどう聴くか、ということとともに、「これから出したい音をあらかじめ心の耳で聴く」ということを学ぶようになった。ある意味、耳で自分を方向づけるようなものだね。

これから実現したい音を、あらかじめ心の耳で聴く。そうすれば身体はそれに合わせてて必要なことを実行してくれる、という考え方だ。

そのやり方・考え方を教育してくれたわけだけれども、その考え方に基づいて「自分を教育する」ことそのものを学ぶことが可能なんだ。

すごくクールな体験だったね。

そこから生活するようになったスイスでは、1987年から1997年までチューリヒ交響楽団というパートタイムのプロオーケストラに在籍して演奏活動をしていくことになった。ブラームスも演奏会をした歴史的に有名なホールであるトーンハレで1シーズンに6〜7回定期演奏会をやっていたよ。』

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第2回【楽器を演奏していて、初めて身体が「ラク」に】へ続く
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