判断を先生に預けることの危うさ

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先日、2度目となるレッスンを受けに来てくださった方に、

『数週間前に教わったことを、やっているつもりだが合っているかどうか教えて欲しい』


と言われる場面がありました。

この、先生など「教えてくれる相手」に対して『自分のやっていることが合っているかどうかを尋ねる』という行動は、

実はけっこうリスクがあります。

なぜならば、

もし『教わって、やっているつもりのこと』が効果的だったり、建設的だったり、自分で手応えが感じられるものだった場合、

それにも関わらず合っているかどうか、良いか悪いかの判断を他者に預けることは、自分にとって良いふうに作用していることでも相手の言葉や判断次第で捨ててしまうことになりかねないからです。

大事なのは、

「言われた通りにできているか」
「先生から見て正しいかどうか」

ではなく、

『何であれ教わったつもりのことを、自分なりにやっているつもりのときに、それは自分にとって助けになっているか?プラスになっているか?』

を自分で判断することです。

もちろん、自分で判断するために、他者の意見やフィードバックを求めるのは良いことでしょう。

しかしそれでも、自分の手応えや感覚という情報も踏まえて、自分が自分のために判断し決めることが大切です。

自分としては良いように感じていたり、
やるとやらないとではやったほうが客観的にも良いといったりした場合、

そこでもし判断を預けた相手が悪人だったり(笑)、
権力主義的でなんでも自分がコントロールしようとするひとだったり、
レッスン力がなく建設的な言葉のやり取りが下手なひとだったりしたら、

相手は、本当はあなたにとって良いこと・プラスなこと・必要なことだったとしても

『ダメ』
『間違っている』
『まだまだだ』

というような反応を見せて、あなたがあなたにとって良いことをやることを阻害してしまいかねないのです。

このように、判断を相手に預けることは、相手の意見・感想・フィードバックを求めることとはかなりちがうことだということが、分かりますでしょうか?

そのときのレッスンでは、次のように進めました。

バジル『では、教わって・やっているつもりのことは何ですか?』

生徒さん『構え方の工夫と、唇の使い方のことです』

バジル『では、何にも考えず(以前のまま)に吹くのと、教わったつもりのことを意図しながら吹くのと、音や吹き心地がどう変わるか比べてみましょう』

生徒さん『(…2回演奏する….)ちがいがありますね….2回目のほうが楽器が軽く感じられて、高い音に余裕が出ました』

バジル『それに加えて、響きや音量が増しましたね』

本人は、身体的なことと技術的なことに関してちがいを認識しました。

発言の中にはなかった、音のことに関しては私からフィードバックをしました。

ここで肝心なのは、わたしが何を教えたか、生徒さんのやっていることが正しいかどうかではなく、

『何であれ生徒さんが自身の理解に基づいて行ったことが、それをやるとやらないとではやったほうが良い結果が生み出された』

ということです。

何をやってみるか、というアイデアの部分では確かにわたしのレッスンに来たから得ることができたという面で、教師も役割を果たしてはいます。

しかし、それをどう理解し、どう実行し、どう判断するかは、生徒さん本人の力であり責任であり成果なのです。

わたしは、遅くても高校生にもなればこういった判断力と自己責任能力という点でほとんどのひとが「大人」だと思います。

ですから、関係上、生徒と先生という間柄ではあっても、判断の権利と責任を、必ず生徒さんに渡すのが大切だと感じています。

でないと、いつまで経ってもアイデアや判断が教師の側に帰属し、生徒が自分で自分のものへと発展あるいは変成させていくことができないからです。

教えるひとの役割は、教えているないように関する経験や知見において一日の長があることを活かして、生徒さんが自身で行う観察・実験・判断をサポートし、自己判断力と自己コーチング力を高めることの触媒・きっかけとして作用することにあるのではないかな、と感じます。

もしかしたら、日本で馴染みのある師弟関係とは異なっているかもしれないし、逆に本質的に重なるところもあるのかもしれませんが、

Basil Kritzer

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