教えることの価値観と手法

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先日、アレクサンダー・テクニーク教師養成コースで授業を担当していて、

教えるひと(先生、指導者、コーチetc….)には

『教えることの価値観』
『教える手法』

がそれぞれ別個にあるね、という話になりました。

そして、その両方に

「教える側主導」
「学ぶ側主導」

の両極があります。

ということは、

「教える側主導の価値観で、教える側主導の手法で教える」
「教える側主導の価値観で、学ぶ主導の手法で教える」
「学ぶ側主導の価値観で、教える側主導の手法で教える」
「学ぶ側主導の価値観で、学ぶ側主導の手法で教える」

という4つの在り方があることになります。

わたしが学んできたタイプのアレクサンダー・テクニークは、まちがいなく価値観の部分では『学ぶ側主導』が貫かれています

具体的には、たとえば楽器演奏に関するレッスンをする際、たくさん息を吸おうとして肋骨を動かす代わりに背骨を反っているというケースに出会うとします。そのとき、わたしたちは「息を吸うために肋骨を動かすこと」を提案する場合があります。

肋骨と背骨の区別も必要であればもちろん行いますが、レッスンの主眼は、「もっと息を吸いたい」という『学ぶ側の望み』に置かれます。
その実現方法を一緒に探求するわけです。

息の正しい吸い方とか、背骨を動かすべきか肋骨を動かすべきかとか、そういったことがレッスンのテーマになるのではありません。

『学ぶ側の望むこと』に関連して、学ぶ側に役立つことを探求するのです。

提案したことが役立つかどうかを決めるのも、学ぶ側です。(その手伝いはするでしょうけれども)

また、「肋骨を動かす」ということに関しては、それを「やる」のも学ぶ側です。
教える側が、「肋骨を動かしてあげる」ということを選択することは滅多にありません。

なぜなら、そのひとが自分自身の肋骨をどう動かすかは、そのひと自身がいちばんよく知っているはずであり、
また教える側が 「動かしてあげる」と、その時点で、そのひとの肋骨がどう動くかを教える側が決めてしまっていることになるからです。

そうすると、本人のいまの動かし方より教える側の動かし方の方が役立つとしても、どこかで「押しつけ」になっていることは変わりません。

動かすことを、どう動かすかも含めて提案したり手伝ったりはしますが、それを実際に「やる」ところは学ぶ側に預けます


という考え方や選択が、「学ぶ側主導」という価値観を選択していることを示しています。

では、教える手法の部分はどうか。

それは、アレクサンダー・テクニーク教師たちやレッスンのケースによりそれぞれだろうと思います。

わたし自身のケースでいえば、次のようなときに、強く「教える側主導の手法」を使うときがあります。

たとえばレッスンのなかで生徒さんが望んでいることに関し、上達や改善が明らかにあったにもかかわらず、生徒さんが「でもまだ〜がダメだ」と言いだしたとします。それに対しわたしは、場合によっては平然と何度も「〜はどうだった?」と、上達し改善したところについて問い直します。

それは、生徒さんが言っていることを無視しているようにすら見えるかもしれません。
でもやっていることは、無視ではなく、『学ぶ側の望み』に役立つことに学ぶ側の注意を強く引っ張っているのです。

そうしないと、『学ぶ側の望み』に貢献する中身や学びが、学ぶ側に残らずに終わってしまいかねない状況だからです。

つまり、『学ぶ側主導の価値観』に依拠するからこそ、「教える側指導の手法」を強く用いたということです。

かと思えば、生徒さんの言葉を拾って、レッスンで試すことや提案することをどんどん生徒さんに合わせて沿わせていくようなときもあります。

ですからわたしの場合は、「手法」はそのときによって変わります。

さて、わたしは明確に『学ぶ側主導の価値観』を選択していますが、これがあらゆる教育・指導・レッスンに良いのだと主張しているのではありません。

『学ぶ側主導の価値観』とは、学ぶ側は個々の望んでいること・学びたいこと・実現したいことにに寄り添い依拠するものです。ですから、ひとつの集団をリードするうえでは時間がかかったり、非効率であったり、足並みが揃いにくい面があるかもしれません。

知識や体系を伝授することが求められている環境や場面では、『教える側主導の価値観』で進めることが適切・必要なことはいくらでもあるだろうと思います。

しかしながら、音楽をはじめとする創造活動の教育・指導・レッスンの場面では、『学ぶ側主導の価値観』でレッスンが行われることは、いつもとは限りませんが非常に重要なのではないかとわたしは思います。

そして、レッスンをする側のひとたちには、学ぶ側の望みを的確にサポートできる価値観と能力が備わっていると素敵ですね。

もちろん、これには学ぶ側が、「自分はなにをしたいのか」「自分は何を学びたいのか」 「自分はどうなりたいのか」を意識するとでもいいますか、考え・向き合い・感じとり続けることが求められます。

それって、決して「簡単」なことではありませんね。素敵であり、同時になんらかの厳しさの側面もあるんじゃないかと思います。

自分の人生・感性に責任と主体性を持つ、そういう意味での厳しさですね。

世の中・人生・現実は、白か黒の世界ではなくさまざまなグラデーションとグレーゾーンが連綿と重なり合う世界ですが、それでも音楽の場はどこでも・いつでも、『学ぶ側主導の価値観』が普遍的に貫かれていてほしいな….

そう思っています。

Basil Kritzer

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教えることの価値観と手法」への2件のフィードバック

  1. このテーマについてレッスンを受けたいです。レッスンする立場の者として。何かよい講座はありませんか?

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