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先日、レッスンの後にバイオリンの生徒さんが、
「習っている先生が型や見た目にこだわっちゃって、それが自分にとってあまり良くないと感じている場合はどうしたらいいでしょうか?」
と質問をくださいました。
レッスンでは、この生徒さんの「音がかすれてしまう」という悩みをテーマに探求したのですが、これの改善につながったのが、奏でたい音を奏でるためにはなにをする必要があるのか(=動作)が何なのかを明確にしていったことでした。
ですから、どんな「動作」を実行するか、というのが改善のポイントだったことの裏返しとして、普段習っているバイオリン先生とのレッスンが固定的・静的な「形」が強調されていることがかすれの原因の一端
だったとこの生徒さんは感じたのだと思います。それ故の質問です。
わたしはしばらく答えに悩みましたが、結局は
「先生とディスカッションしましょう」
ということになりました。
なぜ悩んだかというと、ディスカッションする、自分の意見を(たとえ先生の意見と対立するものでも)言う、ということが本当に大事だしほぼ唯一の本質的な答えだろうと思った反面、「….でもなかなかできないよな、そんなこと…」というのもわたし自身の本音だったからです。
向こう見ずな中学生のころは、習っていた先生の仰ることに分からないことや納得いかないことがあれば、遠慮なく「それはちがうと思う」とか「それだとやりづらい」とどんどん発言できていました。
当時の先生はオケを定年退職された方で年齢的にも精神的にも余裕があって、いま振り返ると非常におおらかに接してくださっていました。
でも、大人になるにつれ、段々と人間関係にもまれて空気を読むようになってしまい、目上のひとや年上のひと、先生方にストレートに意見や疑問をぶつける勇気はなくなってしまいました。
師事した先生方が一方的な関係しか許容しないわけでは決してありません。ただなんとなく、ストレートな意見交換やディスカッションをやるのは怖くなっていったのです。
いまでもなかなか、そんなことできません。
わたしが思うに、
・社会と文化の影響
・指導者と生徒の非対称性
がそこにはあると思います。
日本の方が欧米より、ディスカッションなんてなかなかできない面は相対的には強いでしょう。
でも、欧米だってなかなか、生徒の立場からすると対等なディスカッションを求めることはハードルが高いのが実際のところだと思います。
そして、やっぱり先生の方が技術も経験もある。だから、意見の裏付けも重みもなんだかちがうことが多いのです。それは生徒だって感じるものです。
さらに、先生というのは何らかの権威や権力を持っています。人脈があったり、業界で信頼されていたり。そんな先生に嫌われたらどうしよう、と思ってしまうのは仕方がないことだと思います。
先生個々の資質もあるけれど、上述したことは特定の個人ではなく構造としてあるもの、影響しているものです。
だから、先生と生徒のあいだに自由で活発でストレートで建設的なディスカッションを確保するためには、最初から上述した構造の影響を加味して、「本当に正直に対等に意見を交換していきましょうね」という相互の了解を得て、それを明示化をするように努めることが大切かつ有効だろうと思います。
安心・安全にディスカッションができるような信頼関係を意識的に作るということです。
しかも、雰囲気での相互了解でなく、はっきり言葉にして、形式的にもレッスンのはじめのほうにはっりさせておく。レッスンの途中でも、レッスン後でも必要に応じて念押しする。
これは、いまの世の中の現状(先生と生徒はまだまだ非対称的)からすると、指導者たち・先生たちの方から「対等に自由にディスカッションしましょう。大丈夫です。わたしはそれが好きです」と積極的に発信した方がよいと思います。
それで生徒さんの警戒心を薄めてあげて、安心してもらって、信頼関係を作る。
その方がよっぽど早いし、効果的なレッスン(これは良質なコミュニケーションにかなり依存します)を生み出しやすいはずです。
ただし、もちろんのことですが「ポーズ」だけじゃ意味がありません。
本当にディスカッションウェルカムでないと、結局は生徒からみるとなかなか思ったことや感じていることを伝えづらい先生のままですね。
ディスカッション歓迎。
ディスカッション求ム。
ディスカッション当然。
さて、先生のみなさん、本当にそうなれますか?
…..ひとにもよるでしょうが、これが実は多くの先生にとって決して簡単じゃないのです!これはもう、洋の東西を問わず、だと思います。
わたし自身は、最初から批判・否定するために講座に参加したひと(最近はもうないです)や、かなり斜に構えた態度のひとでなければ、ディスカッションを心から歓迎しています。ディスカッションをいつも求めています。
なぜかというと、生徒が内心まだ疑問を持っていたり、すっきりしていなかったり、もやもやしていたり、不安があったりするなら、それをぜひ解消して希望と手応えを掴んだ状態でレッスンを終えたいからです。
じゃあそれはなぜか?
単純に、自分がそういうレッスンを受けるのが好きだし、レッスンを受けるならそういうふうに終わりたいからですね。
結局、「自分が先生として、レッスンの時間をどういう時間にしたいか」ということなのだと思います。
先生として、どんなことがしたいか。
どんな時間を生み出したいか。
どんなものを提供したいか。
そういう良い意味での「自分中心」の興味、好奇心が先生としての立場とか権威とかメンツといったディスカッションを阻むものをひょいと簡単に乗り越えさせてくれるものなんじゃないかと思います。
ですので、ディスカッションを歓迎したいけれど内心いろいろ気になって心をオープンにできない先生方。なかなか生徒と安心・安全な信頼関係のある雰囲気を作れないでいる先生方。
まずはご自身が、レッスンや指導というものを、理想的にはどんな時間と空間に演出したいかを考えてみることが、意外と突破口になるかもしれません。
思いつくままに書き進めましたが、少しでもあなたの役に立てば、と思います。
Basil Kritzer