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きょう、尚美ミュージックカレッジのオープンキャンパスで体験入学の高校生向けの講座を行いました。講座にはミュージックカレッジの現役の学生さんたちも見学にいらっしゃいました。
講座後、学生さんのひとりから
「だれにでも腑に落ちるように教えられるようにするにはどうしたらいいですか?」
という質問を頂きました。
【音大を志したきっかけ】
わたしは、そもそも音大に進学した動機が、中学生のときにはじめてホルンのレッスンをプロの奏者の先生京に受けたとき。京都市交響楽団を定年退職されていた逢坂先生です(お元気かなあ…)
そのレッスンがなんだかもう面白くって、逢坂先生に「どうやったらホルンの先生になれますか?」と尋ね、先生が面喰らいながら「…..ええっと…..たぶんまずは音大に行くといいのかな??」と答えられて、「じゃあ、音大行きます!」と決めたのがきっかけでした。
(音大に実際に行くころにはその最初の動機を忘れてしまっていたわけですけれども)
教えること、レッスンというもの自体がとても面白く感じていまこうして職業になっているので、教え方について音大生から質問を受けるのはなんだか嬉しく感じました。
【腑に落ちる教え方とは?】
どうやったらみんなの腑に落ちる教え方ができるか?
….ふむ…..
確かに、どうやったらそんなことができるんだろう…..?
もし、その学生さんに、きょうのレッスンが「みんなの腑に落ちる教え方」のように見えたとしたら、たぶん大きくは二つの理由があるかな、と思います。
1:参加者のモチベーションや期待、やる気が高い
レッスンがうまくいくかどうかは、もちろん指導者の力量もあるけれど、生徒・受講者の貢献度も高いのです。
きょうのレッスンで言えば、受講した高校生たちは以前からわたしのブログや本を熱心に読んでくれていたようで、きょうをとても楽しみにしてくれていた。
見学の学生さんたちも同様で、わざわざ自発的に参加してくれていました。
そういうコンテクスト、前提条件がすでにあるので、わたしとしては非常にやりやすい状況なのです。
多少、うまく説明できずに言い淀んだり、言葉に苦労する場面があっても、受講者や参加者が自分なりに汲み取ってくれたり、分かろうとしてくれます。
前向きに、熱心に迎えてくれる場・雰囲気かどうかというのは、「腑に落ちる指導ができるかどうか」にとても大きな影響を与えていると思います。だから、事前にどんなレッスンをするのか、レッスンをする指導者はどんな考え方や個性の持ち主なのかを知っておいてもらったり想像したりしてもらえるようにすることが指導者側からできる「参加者のモチベーションアップ法」のひとつです。
2:相手についての情報を集める・引き出す(相手のことをよく知る)
相手の腑に落ちるようにすることは、その人がどんなひとで、何を考えていて、何をしようとしていて、どんなことが起きているかをこちらが理解もしくは推測できればできるほど可能になってきます。
腑に落ちるようにしょうという意図があるというよりは、「このひとのいまとこれからにこそ役立つようにしよう」「このひとが本当に持って帰って使えるようにしよう」という意図があります。
そのために、相手のことをよく観察するし、何かこちらが「もしかしたらこういうことなおかもしれない!」とピンときたり、なんとなく役立つ可能性がある案を思いつくまで相手の話もよく聞きます。
– – -教えるときに「実際」やること- – –
・やっていることを見ます。
・音を聴きます。
・言っていることをよく聞きます。
・それらの情報を総合して、ひとまず提案をします。
・あるいは何か質問したりして、さらに情報を引き出します。
こうやっていると、遅かれ早かれ何事かアイデアや気づきは生まれるし、なかなか出てこなくても出てこないときこそ情報収集・観察を継続することしかできることはないのです。
「これを試してみて」という提案自体が、さらなる情報収集のための実験のことだってありますね。
【上達の原動力は、期待と希望】
腑に落ちる、というのは結果なので、それを直接目指してもなかなかそうはいかないのかもしれません。相手をできる限り理解し、いまできる範囲・思いつく範囲で役立ちそうなことを提案し、実験し、どうなるかを一緒に探求する。そうすると何か新たな情報や気づきにつながることがある。
そうやって一歩一歩(ときには一歩が大きな飛躍であることもありますが)「前進」することがとても実用的で、確実で、有益だと思います。「腑に落ちる体験」はレッスン中に起きるかもしれないし、レッスン後に生徒さんがいろいろ思索しているときや練習している中で起きるかもしれないし、もっとずっと後になって「あれはこういうことだったのか!」とつながることもあるかもしれません。
レッスンや指導においては、生徒の横に立っている指導者自身が、生徒の前進や課題について不安がっていない、絶望をしていない、常に前向きに情報収集や実験を重ねていこうとしていることはとても大切だし、潜在的には生徒にとって大変勇気づけられ安心できる流れになっていると私は考えています。
上達や努力の真の大敵は、怠慢などではなく、不安や絶望だと思うのです。生徒がわざわざレッスンを受けにきているならば。本質的に怠慢なひとはお金や時間やエネルギーを使って学びにくるという能動的なことはまず行いません。
ということは、上達の動力は、期待と希望だと思うのです。不安と絶望の反対ですね。
指導者がそういう発想、考え方、姿勢、アプローチでレッスンをすることにはもうひとつ大事な意味があって、それは指導者がそういうやり方でレッスン中に生徒を導いていくことが
「あなたもひとりで練習するとき、そういう発想をしましょうね。そういうふうに自分自身を導きましょうね」
というもうひとつの(長期的にみれば目の前の課題よりもしかしたら大事かもしれない)レッスンになっているのです。
Basil Kritzer
こんにちは。
趣味でマーチングをしている者です。
参加者のモチベーション、とても共感しました。私自身もワークショップや勉強会に行ったりこういった記事を読むことはよくあるので、学ぼうとする姿勢のある人が集まる教室やイベントはとてもスムーズだったことを思い出しました。
ところで質問があるのですが、1人対多人数(20人ほど)でレクチャーをする場合、皆一様に接するべきなのでしょうか?
私は所属するマーチングバンドで動きの基礎指導をしているのですが、多人数に向かって話すのが苦手で、「〇〇が苦手な人もいれば出来ている人もいるので」などと曖昧な感じに話してしまいます。私は〇〇という事について注意してトライして欲しい!と思って言うのですが、個人を指して言うとその人が責められているように感じたり他の人を無視しているように感じて(私が学生のときそうだったのもあって)気が引けてしまうのです。かと言って曖昧に話してしまうと本当に伝えたい人には伝わらないので改善は見られず、次のトライの後も似たようなアドバイスの繰り返しになってしまいます。
皆が皆同じように成長するわけがないのは私の中で既にわかっていて、個人個人に寄り添ったアドバイスを心がけているつもりなのですが、皆に対して話さなければと考えるとどうしても一般化してしまいます。
多人数相手でも良いアドバイスのできるやり方はないものでしょうか…。
森山さん
「1対多」の場合、その場はどういう場のかの共通理解と合意を作る必要があります。
・自分のことを個別に言ってほしいひとが参加する場なのか?
・個別のことは言わずに全体についてのみ言う場なのか?
・状況に応じて、自分のことを個別に言われても「OK」もしくは「そうしてほしい」という合意をしてあるのか?
・言われたくないひとは事前に把握して、言わないよう配慮してもらえる前提のある場なのか?
大前提として、「自分のことを言われたくない」ひとに何かを言うには、了解と合意が必要です。
相手を尊重する必要があります。
個人へのアドバイスをみんなの前で話すときは、その個人もみんなも「それでOK」ということになっている必要があり、
また、できる限りその個人へのアドバイスが、他のひとにとっても興味深かったり、応用して活かせることだったりすると「1対多」は、「1対1」よりもっと豊かな場になりえます。
Basil
バジルさん
返信ありがとうございます。
共通理解ですか。確かにレクチャーを受ける側がどう思って参加しているのかは聞いたことがありませんでした。
きちんと双方に合意がありそれが浸透している状態なら、個人へのアドバイスも自分のことのように学習できる、ということでしょうか?
>>きちんと双方に合意がありそれが浸透している状態なら、個人へのアドバイスも自分のことのように学習できる、ということでしょうか?
そうです。わたしのレッスンやセミナーもいつもそうです。
Basil
ありがとうございます、参考になりました!
お教えくださった点に留意しつつ、取り組んでみることにします!