3ヶ月以上、中断していたこのシリーズ。久しぶりに再開させようと思います。前回までは、F.M.アレクサンダーの原著を使っていました。
しかし今回からは、R.ブラウンが編集した、アレクサンダーの4冊の著作要約版を使う事にします。よっぽど分かりやすくなっているからです。アレクサンダー自身が、全てのページにOKの署名をしているほど、見事な要約です。
(残念ながら要約は英語のみ。和訳はまだありません。)
自己の使い方:第1章『テクニークの深化』の管楽器演奏のための応用解釈をシリーズで書いていましたが、前回終ったところから最後までを要約版で読み咀嚼して管楽器演奏に関連づけて考えたことを今回記して第1章は終わりとします。
さて今回のテーマですが、ズバリ「意識的なカラダの使い方とは」です。
F.M.アレクサンダーは声が出なくなるという症状の原因を、自分が頭を押し下げており、それに伴って胸や背中、足などカラダのいろんな部分それぞれに特有の無駄な緊張をさせていたことに見出しました。
色々見えた癖や緊張でしたが、その端緒は「頭を押し下げる」ことにあることが分かり、これをある程度やめられると、カラダのほかのいろんな緊張も起らなくて済むことが分かりました。
キーポイントは「頭を押し下げずに物事をやっていく」にあるのです。
管楽器演奏を上達させたいとき、アンブシュアや呼吸などいろいろ意識しますが、カラダ全体の効率の良さのカギを握るのは、「頭を不要に押し下げないでいること」なのです。
まあまずどんな教則本にも奏法論にも出て来ない話です。
「天井から吊るされるように」という表現はよく見かけますが、これもイマイチかもしれません。なぜならこれでは首をやたら伸ばして結局緊張させてしまいますから。
頭を下に引っ張る筋肉はあっても「頭を吊るす」筋肉はないですからね。
意識したいのは、「頭を押し下げないこと」そして「押し下げまいとして、結局筋肉で余計がんばってもいけない」ことです。
F.M.アレクサンダーは、頭を押し下げず、特有の他の部分の無駄な緊張をせずに声を出すことを試みます。しかしそこで気付かされました。どれだけ押し下げていないつもりでも、「声を出そう」と決めた瞬間に、元の押し下げとカラダの他のいろんな癖に戻ってしまうのです。
これは無理もないことでした。ずっと何年も「声を出す」ときには本能的にこういう出し方を繰り返し、身に付けて強化してきたわけですから。
しかも困ったことに、慣れてきたやり方が「正しい」感じがするのです。そのためいくら観察に基づいて分かったより良いやり方(押し下げないやり方)をやろうとしても、どうも「声が出せる」気がしない。むしろそっちが間違っているように感じるのです。
ここでF.M.アレクサンダーは、感覚で正否の判断はできないことに気が付きました。感覚に頼っていては、いつまで経っても論理的に導きだしたよりよく機能するやり方を実行できないのです。どうしても「間違っている」ように感じて、いざというときには「正しい感じ」がする元の緊張あるやり方に戻ってしまうから。
そこで論理的に導きだした、頭を押し下げない新しいやり方を、感覚に頼らず意識的に実行する必要性がありました。
これこそが意識的なカラダの使い方。
現代では「カラダの使い方」がかなり認識され注目されていますが、そのほとんどは感覚に頼ったものであり、意識的でないのです。
大抵、意識する=感じるという意味で展開しています。
でも F.M.アレクサンダーは、それでは新しいよりよい使い方を意識的に実行する事がなかなかできないことに気が付いたわけです。
楽器の吹き方の癖、ずーっと何年もなかなか変わらなくて困っていませんか?もっと良い吹き方は分かっているのに、なかなか癖を変えられずにいませんか?
おそらく「楽器を吹く」その瞬間に本能的に反応して、いつも通りのやり方に戻っているからです。
必要なのは、
1:「楽器を吹く」という刺激から生まれる習慣的な反応(癖)で実行しない
2:「楽器を吹く」ことを考える/実行する前に、新しいやり方を意識的にイメージしておく
3:「楽器を吹く」ことを考えている/実行している最中も、新しいやり方を意識的にイメージしながら行う
4;以上を経て、楽器を吹くときに古いやり方を伴わない新しいやり方で実行する経験をする。
というプロセスです。
これは、繰り返し辿る必要のある過程です。なぜなら本能的にやってしまう癖は、意識的な新しいやり方よりはるかに定着しているから。そして何より古いやり方は正しく、新しいやり方は間違って感じられるからです。
F.M.アレクサンダーの発見したことと、辿った経緯を見ると、わたしたちが楽器を吹く時、「新しい/より良いやり方をあえて意図的に『考え/イメージ』し続けながら吹く」という、新たな練習法を使えることを教えてくれます。
了