「楽器奏法の正しさは、演奏者本人のみが決めうること」
という見方が、年々私の中で強まっています。
この場合の奏法は、身体を用いた楽器演奏の、主に身体や身体のパーツをどう使うかということや、身体をどう在らせるかという面を指しています。
楽器に対する操作や働きかけのところよりは、目的を持って楽器を操作する手段としての身体をどう用いるかというところです。
なぜそういう見方をしているかについては、主に3つの理由があります。
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《①身体の主権者は、その身体の持ち主である》
まず、抽象的で関係ないことのように感じられるかもしれませんが、身体をどう動かしたり用いたりするかの決定権がその身体の持ち主本人にあること。
身体をどのように使うのも、その身体の持ち主だけの自由と責任であるはずです。
身体と時間を使った労働の成果物を自身で所有できない状態は奴隷であり、奴隷の存在を擁護したり正当化することは宗教的にも、倫理的にも、哲学的にも、政治的にも人間社会の歴史が下るにつれてされなくなってきているのではいかと思います。
楽器奏法や身体運用について議論するにあたって、このことが大前提になっていないことが案外多いのではないかと感じています。
いかなる状況であっても、個人の楽器演奏における身体運用そのものを他人が強制的に変えさせたり、意志を尊重せずに影響を与えたりしてはならないはずではないか、そう思うのです。
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《②他者の主観的体験、感覚は分かるはずがない》
次に、身体を動かす運動神経系の命令を出しているのが100%、その身体の持ち主の脳であり、その運動の感覚を脳に伝えているのも100%その身体の中にある感覚神経であり、感覚神経から脳に伝わった情報を処理しているその脳の持ち主もまたその身体の持ち主と同じであることを鑑みると、「他者がどのように感じながら楽器演奏をしているか」は想像や推測はできたとしても、本当には分からないはずではないか。ということがあります。
相手の感覚は自分には分からないし、自分の感覚は相手には分からないのです。
であれば、ひとつひとつの身体運用をどう感じどう判断するかは、相手自身にしかできないはずではないか、と思うのです。主観的体験と感覚という判断材料は相手にしかないのですから。
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《③相互矛盾した教えがたくさん存在する》
この点は具体的です。楽器奏法に関連した教えには、たくさん互いに矛盾した教えが存在します。
これらは、教えの発し手が異なるから、ということがまずあります。教え手によって、何を正しいと考えたり教えたりしているかが異なるのです。
これは、その中に一つだけ正しいものがあって他が間違っているという状況なのではなく、何が正しいかが教え手一人一人にとって異なるからだと私は考えます。
どうして異なるかといえば、それはまさに先に挙げた2点と、物理的実体としての身体が一人一人大きさも重さも形も異なるからだと言えます。
また、同じ一人の教え手でも、複数の互いに矛盾した教えを残していることがあります。それは、その教えを分かち合った相手がそれぞれ異なるからかもしれません。全ての他者に、一つの教えを分かち合っても、それが有益である人とそうでない人が出てくる。なぜか?分かち合う一人一人が固有の異なる存在だからです。故に相手にとって有益であろうと務めた結果として、複数の相互矛盾した教えが出てくるのです。
そして、教え手たちの実際の演奏の様子を見ると、同じように優れた演奏であっても、異なる奏法、身体運用を見せている様子がある。であれば、どのような奏法・身体運用をするかには複数の選択肢があり、その選択をする・できるのは身体の持ち主たる奏者本人である、ということが言えるのではないでしょうか。
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次の記事では、この見方を持つに至った、あるいは実は内在的に備わっていた見方だったとするならばその見方を変えるのではなくむしろ強めるに至った私の実体験を事例に、具体的に金管楽器奏法の「選択肢」について述べていきます。