練習時間・量についての考察


もしあなたが、「ひたすらたくさん練習しないとうまくなれない」という考え方に接して、その結果いつも自分が練習に費やしている時間が少な過ぎてこれではうまくならないんじゃないかと不安になったり自己嫌悪になっているのだとすれば、どうかこの記事をお読みください。。

【生き方と結びついた練習量】

わたしは、「するべき練習量」=「自分がしたい練習量」と考えています。

どれだけ練習するかは、自分が人生の時間のうちのどれだけを楽器の練習のための使いたいか決めるとよいと思うのです。

たとえば、たった15分の練習でも、いままでできなかったことができるようになり、確かな手応えを感じることがあります。

そういうとき、ひょっとしたら深い満足感を感じるかもしれません。そして、それだけの内容のある練習ができた自分に、ご褒美をあげたくなるかもしれません。

そのご褒美が、その日の残りの自由時間を大好きな映画を観るのに充てることであれば、その日はたった15分で練習を切り上げてしまってよいのです。

またときには、一杯練習したのだけれどもまだ楽器を吹いていたい気持ちがあるかもしれません。

そういうときは、その気持ちを満たすために楽器を吹けばいいのです。

音大生であっても、同様です。

卒業後の目標がオーケストラ入団の他に何かあるとしましょう。たとえば内心、デザインに興味があるなど。

それならば、「音大生である限りはすべての時間を練習に充てるべき」と思わなくてもよいのです。

オーケストラ入団への興味や意志が6割、デザイン関係の仕事への興味が4割ならば、授業時間やリハーサルなどで拘束される以外の「自分の時間」を、楽器の練習6割、デザインの勉強や鑑賞4割で使って構わないのです。

試験が迫っていれば、この割合を変えたくなるかもしれません。

それもまた、自然かつ良いことです。試験でちゃんと演奏したいという、あなた自身の「望み」があるわけですから、試験の前は自分の時間の多くを、演奏の準備に費やす選択をするわけです。

しかし、試験が終わったら、たとえば3日間はいっさい楽器に触れずに、自分の中の「デザイン欲求」を満たすことをするとよいでしょう。

中高生でもアマチュア社会人プレイヤーでも、そうやって、楽器の練習を「自分の人生の生き方に沿った選択」として行えばよいわけです。

その結果としての練習量は、努力や気合いや人格の優劣ではなく、ひとそれぞれの主体的な生き方の反映として、多様なものになってよいはずなのです。

わたしの場合は、「練習量が多ければ多いほどうまくなれる」という、いまから考えれば実におかしな話を頭から信じてしまい、うまくなるために健康を犠牲にして自分にとにかく練習量を課しました。

わたしは体力が無いのか1日5〜6時間が精一杯でしたが、それでもあっという間に調子が悪くなり、身体を痛め、うまくなるどころか一時的に楽器が吹けなくなってしまいました。

しかし「うまくなる」ということには強い執着があったので、こんどは「うまくなる練習だけする」ということを始めました。

本当に確実に自分が手応えをつかめる時間だけ練習をしました。少しでも練習の能率が落ちてきた感じがしたら、即座に練習をやめ、次の日まで待ちました。

はじめはそれは1日わずか5分でした。大学卒業の頃にはそれは40分ほどまで伸びましたが、リサイタルの準備などを除いて、それ以上の「量」を練習したことは一度もありません。

わたしの求めているものが、「うまくなる練習だけ」だったからです。

意図せず、わたしの練習量はわたしの求めているものを反映することになり、そうやって突き詰めた練習のやり方や考え方は、まさにいまこうしてわたしの「本業」になっています。

おかげで、週に4〜5回、出勤前に15分〜30分の練習をしているだけですが、毎日確かな手応えと上達を感じながら充実した楽器生活を送れています。

【自分がいちばんすきな練習の時間帯やペースを見出そう】

練習時間に関しては、「どれだけするか」という観点が突出して語られがちですが、「いつするか」もまたポイントです。

「どれだけするか」ばかりに気が向いてしまうと、1時間の練習より2時間の練習の方が必ず上、ということになってしまいます。

しかし冷静に観察していれば、時間帯や環境などによって2時間練習するチャンスより1時間の「良い」練習をすることを優先した方が、練習効果が高いことはしばしばです。

たとえばわたしの場合、学生時代はドイツ語であらゆる授業を受けていました。

わたしは日本育ちのアメリカ人。ドイツ語はさすがに完全なる外国語です。

それで学ぶ音楽史や音響学の授業などは、脳みそが爆発しそうなぐらい難しかったです。

そういった授業の後、学校の練習室が2時間や3時間使えることがありました。しかし、ドイツ語で疲弊しきった状態での練習は、まったく楽しくないし、まったく身になりませんでした。

それならば、朝、まだ誰も来ていないうちに早起きして学校に行き、授業前の1時間を狙って練習室に入った方がよっぽどよかったのです。

しかし、根性論に則ると、量こそが全てです。

時間帯や、スケジュールの前後関係により「疲労度」を考慮することなど、「ただの甘え」と一刀両断に処されてしまいます!

根性論の恐ろしさはここにあります。どんな観察も、どんな事実もまったく受け付けません。ただひたすら、頑張るべき。もっとやるべき。努力は量。辛さとしんどさに耐えた者が偉い。

そういう根性論の脅迫に負けないでください。あなたが、自分の望んでいるように上達し、健康に幸せに人生を前進することが大事です。

非科学的な根性論に毒されるのは、もったいなさすぎます。根性論にそれほどの価値はありません!

「自分に合った」練習時間は、置かれている状況や社会的な立場によっても、人生のさまざまなフェーズで変化することがあります。それとともに、タイプとして元々が朝型のひともいれば夜型のひともいます。

どの時間帯が自分に合っているかは、総合的に柔軟に判断してください。一定していなくてもよいのです。

「自分に合った」練習のペース。これもほんとうにひとそれぞれです。

10分〜15分の短い練習を一日の中で複数回行うのが合っているひともいます。そういうひとの中には、いっぺんに3時間練習するより、15分の練習を一日に3回行う方が効果的というひともいます。練習量が3分の1以下でも、です。

逆に、2時間ほど集中力を切らさずにガッと集中して練習に没頭できるひともいます。そういうひとにとっては、例えば朝一番にその時間を確保する事が、多少眠くても効果的なこともあるのです。

授業、仕事、練習室、体調。さまざまな状況によって選択は必ずしもベストのものはできないことも多いでしょう。しかし、折り合いをつけながらも、ベターな選択を探る事はとても価値があることです。

頑張る前に、まずは実験と探求です!

【必要に応じた練習量】

たとえば金管楽器で言えば、練習に費やす時間=吹いている時間に、ある一定の「量」が必要になるのは、予定している演奏会のためのリハーサルと本番を最初から最後まで正常に演奏するための「スタミナ」を準備するときです。(それに関して詳しくはこちら「金管楽器奏者のスタミナ・耐久力問題を考察する」をご覧下さい。)

ドイツのオーケストラの団員を務め、音大で学生の指導に長くあたっていたあるホルン奏者は、夏休みになると1ヶ月間、いっさい楽器に触らずに過ごしていたそうです。オーケストラのシーズンが始まる数日前から練習を再開し、だんだんと練習を増やしていって前日は1日1時間の練習まで持っていき、それでオーケストラの仕事に復帰する準備が整うと言っていたとのことです。

対照的に、学生時代に1日15時間吹いていたことが伝説になっている有名オーケストラのチューバ奏者もいます。

いずれも、大変優れた奏者です。

同じレベルで優れていても、練習量や頑張りが同じわけではないこのような事例が実にたくさんあるはずです。

練習量で自分を責めたり、
無条件に不安になる必要は、無いはずなのです。

Basil Kritzer

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練習時間・量についての考察」への2件のフィードバック

  1. 音大受験時代、練習は3時間くらい、と聞いていました。以来、いくら疲れていてもそれくらいは練習することを自分に課して大学卒業まで「頑張り」ました。
    今では楽器はやめていますが、この記事を読んでまた始めようかなという気になっています。生き方を練習時間に反映させるあたり、感動して読みました。

    • hitbit さま

      とても励みになるコメントに感謝です。
      これからもどうぞよろしくお願い致します。

      Basil

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