わたしが所属するアレクサンダーテクニークのレッスン・スタジオ「BODYCHANCE」では、
・はじめてのひとむけの体験セミナー
・一般向けの継続レッスン「ベーシックコース」
・アレクサンダーテクニークの指導者を目指す「プロコース」
の三つがあります。
先日、「ベーシックコース」で数ヶ月レッスンを続けているアマチュア・チューバ奏者の A さんが、「プロコース」の、わたしが担当している「音楽専門プロコース」に体験参加して下さいました。
その日は、BODYCHANCE の校長先生のジェレミーさんが教えており、わたしが通訳していました。
Aさんから体験参加後、お便りを頂き、またそれへのお返事をする過程で、とても深く意義深いやり取りになりました。
【Aさんからのお便り】
バジルさん、今日はありがとうございました!
大変有意義なレッスンで楽しめました。
それと、実は謝罪しなくてはと感じるところがあって勝手ながらメールをしています。
今日のレッスンの最中、ジェレミー先生から痛みのある演奏とはどういうことかと尋ねられて、私は全く答えられませんでした。。
そもそも思い当たることもない漠然とした疑問だったのですが、それ以上にジェレミー先生の問いかけを受けて、自分が挑まれているように感じてしまったのです。自分が狼狽えていることにも驚いてしまったのですが、一方なぜそんな漠然としたまま問いかけをしたのか、自分でも不思議に感じて考え込んでしまいました。
考えた末に気付いたのですが、結局私は痛くなくても、辛くなくても練習が出来て、楽器が吹けるという現実(少なくともその可能性)を突きつけられたように感じて、それが自分の信念を否定することのように思えて怯えて質問していたのだと思います。
これは自分のテューバの奏法を否定されるようで恐ろしかったのか、練習は辛い、辛いけれど音楽が好きだから辛くても頑張れるという自分の信念を否定されるのが恐ろしかったのか、もしかするとその両方なのか、私には分からないのですが、いずれの意味にしても、テューバを演奏している自分が大切過ぎて、そこに何か新しいアイデアをもらうことすら恐かったのだと思います。
自分の在り方を見直してみたくてアレクサンダーのレッスンを受けているのに、何かを変えられてしまいそうで恐いというのは矛盾しているとは思うのですが、こういう矛盾に気がついたことも今日の私の学びだったのかもしれません。
翻ってみると、私がアレクサンダーをプロコースで学ぼうと考える上で感じていた戸惑いの根はここにあったのかもしれません。アレクサンダー・テクニークのレッスンではいつも自分の新しい在り方に気付けて楽しいのですが、楽器についてはその気付きが恐かったのかもしれません。
言い換えると、私にとっては歩き方や椅子の座り方以上に、確固たる習慣でもあり信念でもあるのがテューバを吹くという行為だったのかと思います。
それに、アレクサンダーのレッスンを受けに来ているのに、テューバについてはアレクサンダーのアイデアをすぐ取り入れることを躊躇ってしまったり、避けようとしているのはアレクサンダーの教えるテクニークに対する「裏切り」なのではないかと、実は心のどこかで怯えていたことも認めなくてはいけないようです。
説明会で、自分はアレクサンダーの生徒になりたくても信者になりたいわけではないから、アレクサンダーが大好きな人達のクラスの雰囲気に入れるかどうか不安だとお話したと思うのですが、どうやらアレクサンダーの信者にならなくてはいけないと思い込んでいたのは他でもない私自身だったようです。。。
ジェレミー先生にも、せっかく学びのチャンスをもらったのに怖がって逃げてしまったことについて、レッスン後に個人的にお詫びをしたのですが、ご本人は本当に気にされていなくてちょっと拍子抜けしてしまいました。(ジェレミー先生が、教師としてはまず自分の基準を大事にしているというのは本当なんだなということも感じました。)
一方、「もし信じていることがあるなら、貴方が望む限り信じていていいんだよ」と実にあっけなく言ってもらえてとてもホッとして嬉しくなりました。
自分はアレクサンダーに興味があるけれど、テューバを演奏するという大切なことに関してはアレクサンダーを信じきれていないのではないか、ためらっているのではないか、それではせっかく学んでもアレクサンダーを教える資格など到底得られないのではないかとさえいつの間にか思いこんでいたことにも気が付かされました。。
アレクサンダー・テクニークを学ぶ上で(というか、新しいやり方を学ぶことにはいつも付きまとうのかもしれませんが)の期待と恐怖が自分の中で整理しきれなくて、困惑していたのかもしれません。
でも、ジェレミー先生の一言を貰えて、たとえ恐がりながらでも、きちんと習慣や信念に向き合う勇気を持てば、自分の選択と責任で、仮にその信念を大切にしながらでもアレクサンダー・テクニークを学べるのではいかと思えました。
おかしな言い方ですが、今日のレッスンでジェレミー先生にとても痛いところ突かれたことがきっかけで、ようやく、自分はアレクサンダーの信者にならなくても、きっと熱心でまじめな生徒になれると自信が持てたような気がします。
とても長々とメールしてしまったのですが、まとめると、私にとってテューバもアレクサンダーも同じくらい楽しく大切なものになりつつあるので、どちらに対しても裏切ってはいけないという変な力みと緊張がいつの間にか身についていたのだなと思います。
こういう自分の中の怯えに気がつけたことが今日の一番の学びだったと思います。そして、こういう学びの機会を与えてくれて、生徒を支えて導けるアレクサンダー教師というのはとても素晴らしい職業だなと思いました。
今日は有意義なレッスンに出席させて頂き、本当にありがとうございました。
そして、唯一悔やまれるのが、最初に書いた謝罪したいという点なのですが、この件では私がもう少し勇気を持って恐がらずにレッスンに臨んでいれば、あの教室のあの場で他の生徒の皆さんが学ぶチャンスにもなっただろうなということです。
お詫びというのも変な言い方かもしれませんが、もしバジルさんが、シェアする価値があるとお考えになるようでしたら、私のこの学びを是非レッスンの体験記録としてシェアして頂けないでしょうか。
私はかなり拗らせてしまっていた方かもしれませんが、私のようにアレクサンダー・テクニークは楽しいけど、一方で本格的に学ぶのは恐いとどこかで感じている人は結構いるのではないかなと思いました(特に、楽器が大好きな人は案外そうかもしれません)。
そういった方に向けても、自分の信念がくじかれる心配をしなくても、アレクサンダー・テクニークは学んでいけるということが伝わるのではないかと思います。どこかで自分の習慣に対して自分の責任で判断を下さなくては行けない時は来るのだろうとも思っていますが。。。
もちろん、バジルさんが適切でないと感じられるようでしたら、このメールの内容はすぐに忘れて頂いて結構です。謝罪と言いつつ、お願いのメール
になってしまい恐縮ですが、ご検討いただければ幸いです。
またBodyChanceでよろしくお願いします!
【バジルのお返事】
こんにちは。
お返事遅くなりましたが、先週は音楽プロコースへのご参加、ありがとうございました。
音楽プロコースは、わたしが設立に最も直接的に関った人間で、そのわたしが(そしてこれはわたしの先生であるジェレミーやキャシーさんもですが)、「苦しみや痛みは、上達や成長に必ずしも伴わなくてよいはず。望みから出発して、楽しくかつラクに演奏できるはず」という価値観を「提起」していて、それに共鳴するひとが集まっていますから、それがAさんの信念体系を強く刺激したのかもしれませんね。
では、わたしはこれまで楽器や音楽をやっていて、楽しくラクなことばかりだったのか?いえ、全くそんなことありません。
ほとんどが苦しみと痛みです。
しかし、「前進」や「向上」や「成長」や「上達」には、そういった苦しみや痛みは伴いませんでした。数少ない楽しくてラクなときに「だけ」、前進や成長が起きていたように思えます。
そして大演奏家たちもやはり、すごく自由でラクそうに見えますよね。それは、「苦しみ」を経てのものなのか?音楽プロコースでは、「苦しみ」が少なかったからこそ、あそこまで大演奏家になっていけているのだと、現時点では解釈しています。
でも、わたしも、そして大演奏家たちももちろん多くの苦しみと痛みを味わっています。それをどう考えるか?
苦しくても痛くても、なぜ諦めずに続けていけたのだろう?
それが、「望み」の力なのだと思っています。
だからジェレミーは、Aさんに「望み」を問いかけていたのかな、と思います。
ちなみにわたしも、「望み」についてはいついつも模索しています。そしてAさんが仰っている、「自分と向き合う怖さ」のこともよく分かります。日々、向き合わざるを得ないからです。
なぜか?
それはアレクサンダー・テクニーク教師という仕事の最優先事項が『自分が自分にアレクサンダー・テクニークを使えている」つまりラクでいられているということです。
仕事があり、責任があり、プレッシャーもあるなかで、「ラク」でいるとは?
これは手抜きや怠慢でできることではありません。だって、ただ単に「ラクする」のだと、現実生活において何もできないからです。
いろんなやるべきことをやりつつ、しかも成果や結果も出して、その間ラクでいられるようにするためには、「自分がなぜそれをやっているのか」という「望み」が本当に明確である必要があるからです。
少しでも義務感や無理やりでやると、頭と脊椎が硬くなります。そしてわたしたちアレクサンダー・テクニーク教師は、頭と脊椎が硬くなるのではなく自由に動けるようにすることを教えています。ということは、わたしたち教師は、硬くなる度に、「向き合う」のです。
・なんで硬くなっているんだろう?
・自分はどういうふうに考えているのだろう?
・自分の望みはなんだろう?
・どのような選択肢があるのだろう?
・自分は何を選択するのだろう?
というように。
ですので、わたしたちも日々、硬くなり、無理をし、苦しみ、痛みを覚えています。しかし、それと向き合って、自分の「望み」の方向へと進んでいくという作業をやっています。それがアレクサンダー・テクニークであり、結果的にラクになるのです。
メールを下さったおかげて、いままで明確に言語化したことがなかったことが、表現できました。この考え方もまた、間もなく変わっていくのだけは確かですが、本当に多くを学びました。
ありがとうございました。またスタジオでお会いしましょう!