聴衆(他者)との関係を選ぶ練習

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この記事では、演奏している自分と、それを聴いてくれている聴衆との「関係」について考えていることを書きます。






【はじめに、あがり症という言葉について】

この記事では「あがり症」という言葉を用いますが、この言葉が使われるとき、そこには医療・医学からのアプローチが必要な状況や原因がある症状と、そうではなく人前に出てパフォーマンスすることに必要な技術や決意・覚悟あるいはメンタルトレーニングやイメージトレーニングなどへの取り組みが必要とされているようなケースとの両方が含まれているように思います。

医療・医学のアプローチが必要とされるケースに、それ以外のアプローチで臨もうとするのは決して良いことではないと思うので、この区別がはっきりしない「あがり症」という言葉はあまり使いたくないところですが、一般的に演奏するひとの「人前に出たときの緊張感・恐怖、およびそれに関連していると思われるパフォーマンスの低下」についても「あがり症」という言葉が普通に使われているため、この記事ではそのまま使います。



【あがり症ショック】


わたくしバジル・クリッツァーはホルンの演奏に関しては中学2年のときから強いあがり症の傾向があります。

こどものころに習っていたピアノ演奏や、講師として人前に立つときは、同じようにものすごくドキドキしたり汗をかいたりするのですが、むしろそれを「高ぶり」のエネルギーとして良いパフォーマンスができます。

しかし、ホルンのときだけはなぜか、負のスパイラルに落ちていってしまうことが多いのです。

そうやってダメになったときのショックというのは本当に辛いものです。あがり症に悩む方々にはわかっていただけるとおもいます。



【演奏に必ず含まれるステップ】

しかし幸いにも、音楽の世界、演奏の世界に深く関わり貢献する仕事を生業とすることがいまのところできているのもあって、演奏者として成長する歩みを仕事の一部としていまも続けています。

なので、自分の問題としても、そして教える場面で出会う生徒さんの問題としても、あがり症という大きな問題に向き合い続けることができています。

そのなかで気づいたことがあります。

演奏者は

  • 聴衆(他者)とどのような関係を作るかを決め、
  • その関係を作ることを実行する



ことをやっています。


それは演奏に必ず含まれるひとつのステップなのです



【個人的・内面的な問題の象徴としてのあがり症】

あがり症問題は、すくなくともわたしにとっては、ひとりの人間としての重要かつ象徴的な問題です。

というのも、わたしにとっては、ホルンを人前で演奏するということが唯一、

自分の本性がバレてしまう感じがするもの

だからです。


わたしは日本育ちのアメリカ人です。わたしが日本に来たのは1歳の時。およそ30年前の日本ですから、いわゆる「外人さん」が日本の普通の学校におり、日本語を話すというのはいまよりはるかに珍しかったとおもいます。

幸いにも、その珍しさでわたしは、どちらかといえば得をしてきたと思います。また、勉強もわりと要領よくできる方なので、目立つうえに認められることの方がだいぶ多かったとおもいます。

いまの仕事も、バジルという名前で、日本語をしゃべる西洋人、というこのキャラクターで得している分はかなり多いとおもいます。


そういう、人格や実力と関係ない要素が全くないのがホルンの演奏でした。

わたしは、「外人で得をしている」という罪悪感みたいなものが常にあったので、ホルンで認められたい、という気持ちが強く生じてきました。

この、罪悪感の裏返しのような気持ちが、ステージに立つときに自分を奈落へと引きずり込んでいくような面がある気がします。



こういった、とても個人的かつ内面的で、過去の体験や生育歴に深く関わることがあがり症の原因の一端を担っていることがあると思います。

そして、こういったことが芸術に取り組むときに浮き彫りになるのではないでしょうか。芸術の本質を媒介する力と普遍性が為せる技だと思います。



内面的な「原因」そのものを取り扱うには、わたしは基本的には心理カウンセリングが最適だと思います。


  • 過去に根ざした内面的なテーマの改善
→ 心理カウンセリング

  • ステージ上で実力を発揮するための身体の使い方を学ぶ
→ アレクサンダーテクニーク

  • 本番に向けて前向きで力強い気持ちの状態を整える
→ メンタルトレーニング


がそれぞれ役立つと考えるわけです。



【ズレを見つける】

しかしながら、必ずしも「過去の清算」があがり症を乗り越えるうえで絶対に必須であるとは思いません。


というのも、演奏は本質的に

・ きょう、いま、この瞬間に生み出されるものであり
・ 「演奏をする」ためのステップを踏み、実行することで成立する


ものだからです。


また、「あがり症」という現象が起きるのは、広義に見れば演奏を成立させる諸ステップのうちのどれかになんらかのズレや誤りがあるからだと思います。

あがり症の克服方法として体系化されているメソッドの多くは、諸ステップのうちのどこかを修正し軌道に乗せる方法論なのではないか、と思うのです。

だから、修正を必要としているステップが、ある「あがり症克服メソッド」が扱うステップと一致した場合はそのメソッドがものすごく効いて役立つひとがたくさんいる一方で、まったく役に立たなかったり、役には立つけれどあがり症に悩まされ続けるひともたくさんいる、という状況が生まれるのだと思います。



【演奏を成立させるステップ】

では演奏を成立させるステップとはどのようなものなのか?

これをどう区分するか、どう言語表現するかについては、絶対的な正解があるわけではありません。

区分の細かさに関しても、ひとにより状況により、区分が細ければ細いほどよいときもあれば、逆に大きな区分のほうがよいこともあるでしょう。



ひとまず 2015年4月現在にわたしが考える、「ホルン演奏本番当日のステップ」です。



A:頭を動けるようにしてあげてそうすることで身体全体がついてくるようにしつつ、(アレクサンダーテクニーク)

B:(Aしながら)なるべく建設的に本番までの時間を過ごし、

C:(Aしながら)自分が望んでステージに立つことを選んでいるのだと再確認し、

D:(Aしながら)ステージの袖に立ち、呼吸をし、

E:(Aしながら)ステージへと踏み出し、

F:(Aしながら)演奏する位置へと歩みながら聴衆を歓迎して時空間を共有し、

G:(Aしながら)演奏する位置に立ち(座り)、

H:(Aしながら)演奏する位置で呼吸をし、

I:(Aしながら)楽器を構え

J:(Aしながら)息を吸い

K:(Aしながら)音を生み出す



【各ステップの意味】

各ステップが何を意味するかというと、


AとB
どんな自分モードで演奏するか、の選択です。アレクサンダーテクニークに特有の部分です。これはこのあと全ステップに付随します。

BとC
いまから行う演奏は、ひとから強制されていることや義務ではなく、みずから望んで選択していることなのだということを理解する部分です。

D~G
聴衆(他者)とどんな関係を作ることを選択するか、の部分です。

H~J
音を生み出すための条件設定です。条件設定は、発音技術や音楽解釈力、表現力などと並んで重要な演奏技術です。構えの技術、息の吸い方の技術などはここに含まれます。

K
音を奏でる部分です。発音、音楽解釈、音楽表現の技術、能力、知識、経験が含まれており、音楽をするひとの最大の関心ごとであり、音楽のレッスンの多くもここに焦点が当てられます。


これらのステップのどれかが抜けていたり、ズレていたり、誤っていたりすると、ステージ上で実力を発揮できない事態につながる可能性があると考えます。

反対に、各ステップにおいて適切なトレーニングを重ねたり、適切なサポートを受けたりすれば、ステージ上で実力を発揮し、演奏後の満足感につながる可能性がグッと高くなります。


あがり症に陥るかどうかは、これらのステップの「踏み外し方」によって、ひとによっても異なるし、同じひとでも状況により異なることがありますから、それは演奏者にとっても指導者にとっても大切なことです。



【聴衆との関係】

さて、わたし個人の場合の「あがり症問題」の根っこは、

D~G:聴衆とどんな関係を作るかの選択

にあるような気がしています。


ほかのステップはホルンを専門的に学び、またアレクサンダーテクニークの経験を深めていくなかでどんどん向上しています。

基本的に演奏や人前に立つことは好きですからステップ B~E にはあまり苦労していません。


それでもいまだに時折、ホルンの演奏のときだけは、あがり症に呑み込まれてしまうのは、先に述べた

『ホルン演奏に関しては、外人というアドバンテージはない』

『だからこそ、それで認められたい』

『だから、ホルンでだけは自分のダメさがバレしまうのが怖い』

といった想いに支配されたときなのです。


「想い」という言葉を使うのは、それらは客観的な現実ではなく、自分がこの世で生きるうえでかけている「色眼鏡」を通して感じていることだからです。


ですが、その想いが絶対的に私を支配しているわけではないと思っています。

極端な例ですが、親族が亡くなって日が浅く「悲しみ」の想いが強く感じられていても、仕事に出勤するなど大切なことが継続できますね。

これは想いに支配されずに、自分が大切にしている活動や取り組みに関われている証拠です。

演奏も、自分の色眼鏡に支配されずに、ベストを尽くすことができるのです。色眼鏡を必ずしも壊したり外したりしなくても。



【関係の癖】

わたしは、

聴衆とどんな関係を作るかを意識的に選択する

練習に取り組んでいます。


放っておくと、わたしはついつい、

「みんななんて思っているだろう…」

「下手だと思っているだろうな…」

「かっこ悪いと思われてるだろうな」

「信頼を失っているだろうな…」

そういう目線を聴衆に向けます。


これって聴衆に対して、彼らを警戒し恐れている点においてかなり敵対的で、また自分自身に対してはとても卑屈で自己否定的な「態度」ではないでしょうか?

そんな態度をホルンの演奏のときは聴衆に対して作ってしまいがちなのです。

ある種の癖なのだと思います。


癖というのは、過去やなんらかの別の状況・関係性においては、なんらかの意味において「役だつこと」ですから、この癖も昔何かの役に立っていたのかもしれません。

しかし、よい演奏をしたいというわたしの望みに関して、この癖はもう役に立っていません。わたしの望みを阻害するものなのです。


癖は、自分でやっていることです。

ですから、状況を変えるには、「癖ではない別のこと」を選択的に実行し、新しいパターンとして確立していく必要があります。

癖を潰そうとするのでなく、新しい別のことをやるようにしていきたいのです。


わたしは、聴衆との関係の作り方において根の深い癖を抱えています。

ですから、自分が望む聴衆との関係はどんなものかを考え、意識化し、選択して実行することが必要なのです。



【聴衆との関係性の練習法】

そこでいま、わたしが気に入っている取り組み方は次のようなものです。


1:実際に人前でホルンを吹く状況を思い起こします

2:いろんな想いや反応がある

3:頭を動けるようにしてあげて自分全体がついてきながら問いかける。

「この聴衆とどんな関係でいたいだろう?」
「自分はこのひとたちを前にして、どんな自分でいたいだろう?」

4:頭を動けるようにしてあげて自分全体がついてきながら自分が望んでいる関係や振る舞いをイメージ上の聴衆の前でおこないながら

5:頭を動けるようにしてあげて自分全体がついてきながら音を出す(練習する)


これが普段、ひとりで練習しているときから、聴衆との関係やを作るための練習方法です。


あなたは、どんな関係を聴衆と持ちたいですか?

わたしの場合は、

  • 曲の良さ、味わいを積極的に「語ろう」とする能動性
  • うまくいかなくても大丈夫、というリラックスした在り方
  • 等身大であり、等身大だからこその積極性やサービス精神

こういった自分の在り方で聴衆と関わりたいです。

なのでその在り方を、想定している聴衆との関係において、ひとりで練習しているときも選択します。

演奏の一部としての「聴衆との関係づくり」を地道に練習できるのです。



Basil Kritzer

頭を動けるようにしてあげて、身体全体がついてくるようにする、ということの意味(アレクサンダーテクニーク)に関しては、こちらの記事をご覧ください。
『ひとりでやってみるアレクサンダー・テクニーク』  




7 thoughts on “聴衆(他者)との関係を選ぶ練習

  1. 演奏家ではなくあがり症で苦しんでいるダンサーですが、バジルさんのツイートやブログを興味深く読ませていただいておりました。おかげさまであがりに対して準備をしたり、考え方を変えたりできるようになり、まだまだではありますがよい変化を実感しております。

    今回のブログは大変衝撃的でした。私はステップGの聴衆(観衆)とともにいることを選んでいない!ということに気付いてしまったからです。。。見られたくないんです、お客さんに。ダンサーは見ていただいてナンボなのに。

    自分がどうして踊り続けているのか改めて考えてみたところ、踊るのが好きであることははっきりしたのですが、自分が舞台に上がる理由がわからなくなってしまいました。

    この答えがあがり症としっかり向き合っていく鍵になりそうな気がしております。
    貴重な考察をシェアしてくださりありがとうございました。
    これからも楽しみに読ませていただきます。

    • naoaoさま


      ダンサーの方に響くものがあったことを知れて励みになります。

      大学時代は音楽よりダンスで有名な学校(ピナ・バウシュの出身校)だったのでダンサーの友達もたくさんおりましたから、
      嬉しいです。

      このテーマはわたしもいまだに暗中模索を続けておりますから、
      それでもここまでわかっていることを書いたことで、naonaoさんが発見されたことあったことは、書いた甲斐がありました。

      「見られたくない」

      という気持ちは、見られるのが仕事のはずのパフォーマーでも多くのひとが持っている気持ちです。

      ・それでも見られることを進んでやっているのはなぜか?
      ・見られたくない気持ちは、いまに根ざしているのか、過去の亡霊なのか?
      ・見られたくないということが本当だとして、それを上回り、見られることを進んで選択する力となる、「ダンスしたい理由」はあるだろうか?

      といった「問い」が役に立つかもしれません。

      やりとりをブログで紹介させていただくことはできますでしょうか?

  2. 返信ありがとうございました。ブログでの紹介は問題ありませんので使ってください。

    それでも見られることを選択しているのは、あがりを克服したその先の世界を見てみたい!ということにつきます。あがらずに、あるいはあがりながらでも集中しきって表現しきって最後まで踊れたらどんなに素敵だろうという思いがあって、それを体験するまではやめられない、・・・でも怖い、・・・でも前に進みたい、・・・でも怖い、という状態です。

    見られたくない気持ちは今に根差しているものでも、過去の亡霊でも、どちらでもあるような気がします。

    ダンスしたい理由、これは答えになっていないかもしれないのですが、ただ踊りたいだけ、踊っている間自分以外の何者かになっている瞬間がただ好きなだけ、です。

    • naonaoさま

      なるほど、「あがり症の先にある世界」というのがとても強いモチベーションになっているみたいですね。
      あがっても、あがらなくても、「表現しきること」。

      それが「見られたくない気持ち」より大きな意味とパワーになっているのだと思います。

      おそらく、「見られたくない」ことより、「表現しきること」を選ぶというのがあがり症を乗り越える道筋なのだな、と思いました。

      ある意味すでに乗り越えておられるのだと思います。

      Basil

      P.S. 紹介ご快諾ありがとうございます。

  3. Pingback: 見られたくない気持ち | バジル・クリッツァーのブログ

  4. ある意味すでに乗り越えているという言葉に励まされております。ありがとうございます。
    あれからずっと観衆との関係について考えておりました。

    「自分は見られている」のではなく「自分が見せている」と状況を捉え直すことで「観衆と共にいることを選ぶ」にさほど抵抗なく近づけるような気がいたしました。

    「私が、見せているのだ」「こちらから訴えかけるのだ」という意識を演技中維持できるようにしばらく練習をしてみようと思います。

    • naonaoさん

      「自分が見せている」

      という言葉に、すごく、力強さと明確さを感じます。
      ほんとうにその通りだと思います。

      わたしも参考になったというか、気づかせていただきました。ありがとうございます。

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