金管楽器を演奏するひとにとって、おそらく最も「達成」したくなったり、逆に不安になる要素が「音域」かもしれません。
というのも、数年間演奏をしていても、まだ「出せない」音が譜面に登場することが多いからです。
譜面に書いてある音をただ「鳴らす」ことだけでもこんなに難しいのは、金管楽器独特だと思います。歌もそれに近いかもしれませんが、歌の世界には「そのひとの声域」という概念があるので、あらゆる音域の全ての音を出そうという発想はあまり無いように思えます。
【スポーツ的/比較競争的な意識の弊害】
現代ではスポーツが普及しているのが大きな要因かもしれませんが、「能力」といえば、わたしたちは「より強く・より速く・より多く」でイメージすることに慣れています。
また、日本の管楽器の世界を支える「吹奏楽部の部活」も、コンクールやコンテストでの成績でその価値を測る傾向が全体的には強いですから、音を奏でることと何らかの競争や優劣を付ける意識と早い段階で結びつきます。
おそらくこういった背景が関係して、わたしたちは
より高い音とより低い音を出せるひとがすごい
と当たり前のように考えるようになります。
高音域や低音域を演奏する際にわたしたちが経験する困難や問題を発生させている遠因は、ここにあるように思えます。
高音や低音が難しいというより、
高音や低音を出せるようにならなきゃいけない
高音や低音を出せないのはダメ
高音や低音が出せないのは無能の証
そういった想いを心のどこかで抱えていることが、皮肉なことに高音や低音を奏でることを難しくしている面があると思います。
こういった想いは、
・高い音や低い音が出せると褒められたり注目が集まったりする環境
・高い音や低い音で手こずっているとけなされたり、評価が得られないでいる環境
にいることで自らの内に沈殿していきます。ご存知の通り、これらが裏表セットで存在している環境が非常に多いですね。
【著しく不当な評価の弊害】
普段レッスンをしていて、吹奏楽部で吹いている中学生や高校生、アマチュアのオーケストラや吹奏楽団で演奏している大人のプレイヤーたちにときどき、
「わたしは高い音( or 低い音)が 出なくて こまっています」
と相談される場面が多いです。
しかし、「では実際のところ何が起きているか知りたいので、吹いているところ見せてもらえますか」と言って聴いてみると、改善の余地はもちろんあっても、基本的にちゃんと高音域(or 低音域)が鳴らせている場合が非常に多いのです。
ですから「出ない、なんてことないじゃないですか!よく鳴っていますよ」と言うと、むこうはずいぶん困惑した表情を見せることがあります。
そして次に出てくる言葉が
「長時間吹いていると出なくなってきます」
「高音のフォルティッシモで力んでしまう」
「低音のタンギングが難しい」
というような、もっと具体的で特定的な悩み なのです。レッスンではそこをテーマに改善や上達につながるアイデアやプランを一緒に作っていきます。
非常に残念なのは、いろんなコンテクストや異なる技術的要請があるなかで、「いまいちうまくいかない / もっとうまくできるようになりたい」という悩みや向上意欲があるというのが現実なのに、なにかひとつ「うまくいっていない」ことがあるとそれを音域全体に拡大して考えてしまい、「わたしは高音域( or 低音域)が出せない」という 著しく不当、不正確で過酷な評価 を自分自身に与えているケースが多いことです。
なにかひとつ「うまくいかない」ことがあるからといって、根本的にできてない、とか、全く出来ていない、とか、致命的におかしい、とかそういうふうに自分のことを思ってしまわないでください。たとえプロの演奏家や指導者にそういうことを言われたとしても、 ほとんどの場合それは誤った評価 です。自然な改善や上達の方法があることを指導者が知らないだけで、 あなたの未来の可能性を否定するような評価はあまり当てになりません。
【ルールを外す】
金管楽器で演奏できる音域を自分自身も鳴らせるようにしていく過程のなかで、高音もしくは低音がうまく鳴らせない問題を引き起こす原因として非常に多く見受けられるもうひとつのケースが、
存在する必要がない禁止事項/ルールを自分に課している
というものです。
よく考えると筋が通らなかったり、そんなことをしていると音が出しにくくなるに決まってることを、誰かに言われたり本に書いてあったりしたところから、守らなければいけないルールとして頑張って保持しようとして、それがまさに高音もしくは低音域の演奏を難しく or 不可能にさせていることがあるのです。
そういったルールの代表的なものとしては
・アンブシュアを音域によって変えてはいけない
・アンブシュアが動いてはいけない
・アンブシュアを緩めてはいけない
・アンブシュアは左右対称でなければならない
・顎を張らなければいけない
・マウスピースは真ん中に置かなければならない
・マウスピースが唇に当たる割合は〜でなければならない
・プレスしてはいけない
etc…
といったものが挙げられます。
これらはいずれも、絶対とは限らない or むしろ逆効果な「ルール」です。
そのあたりの詳細に関しては、下記の記事が参考になるかと思います。
参照:
金管楽器奏者のアンブシュア恐怖症その1
金管楽器奏者のアンブシュア恐怖症その2
「顎を張りなさい」の真実
金管楽器奏者のスタミナ・耐久力問題を考察する
うまくいかないことや失敗を指導者や先輩などに厳しく詰られたショックから、少なくとも彼らが「こうでなければならない」「〜してはならない」と言うことを「一生懸命やろうとする/一生懸命やっているところを見せようとする」ことで、また叱られるのを避けたり、ギリギリのところで許してもらえるようにしておこうとする心理がわたしたちの中に働くのも、遠因となります。
このことからも、ミスや結果を責めたり、叱ったり、プレッシャーをかけたりして、奏者の心を傷付け演奏という行為に無用な恐怖心を持たせるような指導者は、指導者として失格なのです。
【必ず鳴らせる】
とくに中学や高校の吹奏楽部という環境では、楽器のことを知ったり、お手本になるようなプレイヤーの演奏を聴くという機会に十分接する前に、
・高音域はすごく難しい
・(例えば)ハイBbが出せたらすごい
・低音域は難しい
・低音域が上手でも目立たないし、かっこよくない
そういった話や雰囲気、情報を浴びることになります。
そうするといつの間にか、心のどこかで
・高音域(低音域)は普通は鳴らせない
・高音域(低音域)は非常に難しい
・高音域(低音域)はものすごく頑張らないと鳴らない
・高音域(低音域)は才能に恵まれた人にしか鳴らせない
といった思い込みを堆積させていきます。
わたしがここで 強く強くお伝えしたい のは、
高音域も低音域も、必ず誰でもちゃんと鳴らせるようになる
ということです。
どうかぜひ、まずは心のブレーキを外してください。
かなり多くのひとが、実は中学生や高校生のとき、まだあまりごちゃごちゃと気にしていなかったころ、いまはうまく鳴らせない高音域もしくは低音域をそれほほど苦労せず鳴らせていた、という時期を持っています。
案外鳴らせる、という実体験があるのに、いや、あるからこそ、「難しいはずなのに簡単にできている自分はおかしいんじゃないか、間違っているんじゃないか」という心理が働いてしまうこともあるのです。
保証します。あなたにも、練習すれば必ず高音域や低音域が鳴らせる能力が備わっています。
【時間はかかる】
ただし、高音域もしくは低音域が鳴らせるようになってくるまで、わたしたちが期待しているよりかなり長い期間がかかることもあります。
それは「期間」ですので、練習時間や努力量の総量で代替できるものではありません。
鳴らせなかった高音域や低音域は「鳴るようになる」ということは、
1:間違った情報や評価のせいで「本来すでにできるのに、できなくなっている」ことが、発想や理解の変化で「いきなり」できるようになる
2:自転車に乗れるようになるのが、段々上手になるのと同じように、「技術の獲得」によって「段々」できるようになってくる
というふたつの側面があります。
1の場合は、自分の問題を認識したり、それに疑問を持ったり、自ら新たな情報を探し求めてレッスンを受けたりセミナーに参加したりしている「うちに」、あるとき鍵となるアイデアや情報に巡り会うまでの「時間」がかかります。
そういった経緯は、「失敗の構造」と「成功の秘訣」を身を以て、意識的に理解することになるので、後々の別種の問題や行き詰まりに際して素晴らしい教訓となりますし、ほかのひとの苦労への共感や、うまくいかない原因の理解、助けになるアドバイス力の向上につながります。
2の場合は、いますぐ結果を出そうとするのではなく、経時的な取り組みを通して、長期的に自分を励ましながら地道に取り組めば必ず自分はうまくなれるし成長できる、という「自信」を培わせます。
変化や上達というものは、時間の推移の中で起きるのです。それは自分自身に時間を与える「寛容さ」でもあり「規律」でもあるのです。むやみやたらと厳しいのでもなく、かといって変に甘やかすわけでもない。自分自身を信頼しチャンスを与え続ける、それが「自信」です。
指導者が気をつけなければならないのは、甘やかすのが怖いからといって、「厳しくする」つもりでこの「自信」を失わせ、本当の意味での努力をする力を奪ってしまうことなのです。
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