【一年先は無収入。その事実が家族を支え仕事をする「やる気」を引き起こす】起業家的音楽家Vol.4〜ジェフ・コナー第三回〜

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ボストンブラスなどで活躍したチューバ奏者、アンドリュー・ヒッツ氏が主催するプロジェクトが『The Entrepreneural Musician』。日本語にすると、『起業家的音楽家』です。

オーケストラの団員になる、ソリストになる、学校の先生になる….音楽家として食っていく・生きていくうえで、標準的な音楽教育の場で前提になる将来イメージはごく限られています。

しかし、現実にはそのいずれにも分類されない音楽家や、いろいろな仕事を組み合わせて真の自己実現をしている音楽家でちゃんと食べていけている音楽家、さらには経済的にかなり成功している音楽家がたくさんいるのです。

こうして、音楽を中心にして起業をし、あるいは起業家的精神でキャリアを形成している人物たちにインタビューで迫るのが、アンドリュー・ヒッツ氏の同名のポッドキャスト『The Entrepreneurial Musician』なのです。

今回は、ボストン・ブラスの創設メンバーで、1986年からいまでもグループの活動を中心となって続けているトランペット奏者、ジェフ・コナーがゲストです。

4大陸30カ国でコンサートをするほどの世界的なグループにまでいかにして成長したか、グループ解散の危機を呼んだあることについて、そしていかにして日々仕事を呼び込むか、その飽くなき営業戦略と人脈作りの努力を語ってくれます。

前回はこちら→『世界的広告会社のバックアップを引き寄せた、「幼稚園レベルの基本』」』

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【一年先は無収入。その事実が家族を支え仕事をする「やる気」を引き起こす

Andrew
『さて、ボストンブラス駆け出しの頃はボストンブラスはいつもすでに誰かが作ったアレンジ物をやっていたね。しかし、やがてボストンブラス独自のサウンドを作り出すようになっていた。それをやった理由と、どのようにやったのかということを話ししてくれるかい?』

Jeff
『エムパイヤブラスに見習ったんだ。エムパイヤブラスのメンバーにはいつも、「自分たち独自の作品と編曲を作れ」と言われていた。

当初は、スタンダードな金管5重奏のレパートリーをたくさん演奏していた。スタンダードなものもちゃんとできるようになる必要は当然あるから、必須の学びにはなっていたけれど、他のグループの編曲もたくさん購入しているような状況だった。

そんな頃、ボストンブラスのもう一人のトランペット奏者はリッチ・ワデルだったんだけれど、実は彼は凄腕のアレンジャーだったんだ。だから初めは彼がボストンブラスのために作編曲を担ってくれていた。

でも、メンバーにホルン奏者のJ.D.ショーが加わったことから、グループの方向性がガラッと変わり始めた。彼がグループにもたらしたものが、ボストンブラスの道を定めたと言える。

彼は、自身の演奏だけでなくアレンジにおいても素晴らしい才能をグループにもたらしてくれたし、さらにはパフォーマンスに対する彼の哲学も大きな力になった。

彼は、もともとドラム&ビューグルバンドの出身で、「演奏会まるまる暗譜でやろう!」と提案してくれたんだ。』

Andrew
『そうそう、ぼくが初めてボストンブラスで演奏したときが、まさにちょうど君達が暗譜でパフォーマンスすることを決めた時期だったね。君達はもう何週間かリハーサルをしていたんだけれど、本番一週間前に参加したぼくにも当たり前のようにそれをさせたんだよ(笑)』

Jeff
『どういたしまして(笑)メンバーごとに、暗譜の方法や流儀はそれぞれだ。みんな慣れるのに、けっこう時間がかかったよ。たとえばリッチ・ケリーなんかだと、一回吹いたらもう全部暗譜してしまう。でもぼくにとっては時間のかがる作業だった。まず4小節覚えて、次の4小節を覚えて、くっつけて8小節覚えて…というようにして取り組んだ。お互いに対して根気よく接して、「いついつのコンサートは暗譜でやってみよう」と日時を決めてやってみたんだ。』

Andrew
『それは、もっと聴衆と双方向的に関わって、譜面台という心と目の壁を取り払おうというグループとしての決断だったよね。その決断にぼくは関わってなくて、もうそういう方針になっていたグループに入ってきたわけだけれど、ブランディングという観点からもとても懸命な決断だったと思う。』

Jeff
『そう、当時の他のグループはまだやっていなかったからね。』

Andrew
『うん、すくなくとも金管グループでそういう方向性でやっていたグループは他になかった。』

Jeff
『それもまた、ぼくらボストンブラスを差別化する大きなポイントだったね。ほかには、J.D.ショーのアレンジも差別化ポイントとして機能した。全部が独自の作編曲で、彼はぼくらのグループの長所を引き出す音楽を提供してくれた。J.D.もよく言うことだけれど、ぼくら演奏者は作品の消費者だけでなく、生産者でもあらねばならないんだ。』

Andrew
『ボストンブラスは、49カ国で演奏し、何百都市で演奏をしてきた大成功したグループだけれども、金管アンサンブルのグループを維持するうえでいちばん大変であったことはなんだい?』

Jeff
『いちばん怖いのは、「一年先のスケジュールを見る」ことだ。なぜなら、一年先のスケジュール帳は、真っ白だから!保障された収入がない。だから、いつも1年とか1年半先を見越して、「さあ、営業するぞ」と決心する必要があるんだ。でも、それが尻を叩いてぼくを動かしてくれる。』

Andrew
『それって、結婚する前や子供ができる前も怖いけれど、結婚後や子供が出来たあとだと、別次元だね。』

Jeff
『そうなんだ。しかも、自分だけじゃなくて、グループの同僚たちの生活もかかっている。ときには、愕然とすることもある。来年の収入がひとつも確定していないという現実を見るとね。でもぼくはそういう生活を30年以上送ってきた。収入が決まっていないなら、何か動きを起こして、何とかするしかないんだ。』

Andrew
『セス・ゴディンの本で、やるべきことを先送りにするひとたちのことが書いてあった。先送り人間たちは、いつ結局はやるべきことをやるのか。それは、やるべきことをやりそびれる恐怖が、やるべきことが完璧にできない恐怖を上回ったときだと。室内楽やアンサンブルの仕事の世界で、先送りなんてする時間はない。明日、来月、来年にその仕事が保障されているわけではないのだかrね。』

Andrew
『それじゃあ、ボストンブラスがはじめはコーン=セルマート、そのあとジュピターと提携することになった経緯を少し話してくれるかい?』

Jeff
『ずいぶん前なんだけれど、あるときペンシルバニア州の室内楽フェスティバルに仕事を頼まれたんだ。集まったのはみんな、フリーランス奏者たちだった。そこに来ていたチューバ奏者がスコットマン・ドーカーだった。彼はボストンブラスのこともちょっとだけ知ってくれていたみたいなんだけれど、そんな彼はその頃ディラン・ミュージックに関わっていて、ユナイテッド楽器のデザインお仕事に携わっていたんだったと思う。ユナイテッド楽器はC.G.コーン、キング、ビンジ、アームストロングなど錚々たるブランドを傘下に収めていた。そのスコットに、「楽器メーカーと提携はしているのか?」と聞かれた。提携していないけれど、ぜひしたいと答えて、いろいろ教えてもらい、ユナイテッド楽器に誰か話をできるひとがいないか尋ねたんだ。すると彼は、ボストンブラスのようなグループとの提携は会社もきっと求めているだろうと、ヘレン・ウィルソンというユナイテッド楽器のアーティストマネージャーの連絡先を教えてくれた。そうして、ぼくはヘレンに電話したんだ。スコットの推薦で電話していると伝えてね。そこからやがてはコーン=セルマーとの契約が7年続くことになった。

その最後の方でユナイテッド楽器社内にいろいろ変化があって、関係者の多くがジュピターに移籍するようになっていた。その流れで、ぼくらのためにコーンのフリューゲルホルンを設計してくれたフレッド・パウエルがジュピターにのXOトランペットの設計をすることになったと分かり、パット・シェリダンもジュピターのチューバのデザインを担うことになったと分かり、そうやってジュピターの存在感が高まっていった。

そんなこんなで、ジュピター側と会ってみることになり、ジュピターの社長とも会うことになった。君もその場にいたけれど、音楽フェアの会場の一室で待っていたときに彼が入ってきて、中学生がクラリネットを吹いているポスターを指差して、「我々は全て、このためにやっているんだ。我が社は教育がモットーなんだ」と言ったんだ。それでぼくらボストンブラスはすっかり惚れてしまったね。心に一撃で突き刺さる殺し文句だった。それで、ジュピターに移籍して、ジュピターの教育部門の広告塔になった。それ以来、素晴らしい関係を続けている。』

Andrew
『まず、スコットマン・ドーカーに自分から「ぼくたちもぜひ提携したい」と思い切って言ってみたことがポイントだったね。

また、スコットマンにしても、君の演奏を聴いて評価し、まっとうな君の人物像を感じられたからこそヘレンに繋いだはずだ。そうやってまず評価されるような演奏・振る舞いをしていたということももうひとつポイントだ。

音楽の業界で、重要人物や影響力が大きな人物は、「自分は重要人物である」と吹聴してまわったりするようなひとはそれほどいない(笑)。だから、相手によって態度を変えるようなことではダメなんだ。ちゃんと演奏して、一緒に仕事をして気持ち良く働ける人間関係のあり方を君ができていなかったら、そうやってヘレンに推薦してもらえるなんてことはなかっただろう。

小さい業界だから、いつどこで重要人物と接しているかわからないんだよ。』

Jeff
『しかも、業界に長くいればいるほど音楽業界は狭くなっていく。業界にいるだれもが、間にひとりかふたり挟めばもうつながっているんだ。』

Andrew
『最近はFacebookで相手と自分の共通の友達や出身校などを見ていると、相手が誰と知り合いでどういうつながりがあるかもすっかり分かるようになった。

それで思い出した話があるんだ。ボストンブラスの前・トランペット奏者のリッチ・ケリーの逸話だ。

リッチはジュリアード音楽院在学時代、あるときNYセントラルパークで演奏の仕事があった。時期は8月で、いちばん暑い時期だよ。NYはぼくが世界でいちばん好きな街だけど、8月だけは勘弁してほしいと思うくらいの暑さだ。

そんな時期に、マーチをひたすら演奏する仕事で、しかも3番トランペットだから後打ちばっかりずっと続くと。

隣で吹いていた2番トランペット奏者の女性が休憩中にふと、「きみ、すごい上手だね」と言ってきた。リッチは礼儀正しく「ありがとうございます」と返す。20分後、また「きみ、ほんとうにすごい上手だね!」とまた言われた。舞い上がることなくリッチは「ありがとうございます」と答える。暑い日のつまらない仕事だから、きっと他の奏者たちは嫌そうにやっていたんだろうけれどリッチは文句言わず淡々と演奏を続ける。するとまた、「きみ、天才的よ」と言われた。リッチは「ありがとうございます」と落ち着いて答える。

すると、彼女は

「ブロードウェイで演奏したことはあるの?」
「いえ、ありません」
「やってみたい?」
「ぜひ」

・・・後になってわかったのは、この女性が実はブロードウェイミュージカルの演奏者の契約担当者だったということ。彼女の一存でほぼ面子が決まるような立ち位置のひとだったんだ。

彼女はリッチの音楽性と腕前に惚れ込んだだけでなく、彼の真摯で落ち着いた態度を信頼できると感じて、余計なことも言わない彼となら仕事がしやすいと思ってブロードウェイの現場で使おうと思ったわけだ。』

Jeff
『その通り。現場の状況や、支払い額などについて文句を垂れずに淡々ときっちり仕事をこなすこと。それが開いた道だ。』

Andrew
『それをきっかけにリッチは仕事がどんどん増えて、翌年には学校にいく時間がなくなってジュリアード中退ということになってしまった(笑)』

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最終回『47人の「食えている音楽家」に共通する、収入源のマルチ化』に続く
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