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音楽大学に入学してから、音楽の楽しさが感じられなくなってしまった….と深く悩む音大一年生からメールを頂きました。
【音大生】
こんにちは。
僕は現在音楽大学の一年生です。
アレクサンダーテクニークの事は高校生の頃初めて知って、様々な部分で自分の助けとなっています。
本題ですが、アレクサンダーテクニークの中で、練習する動機として音楽の楽しさを再確認し、練習するというステップが重要とされていると思うのですが、
僕は、音楽を聞いて楽しいと感じる気持ちが無くなってしまいました。
高校生の頃、楽器のレッスンを受け始めた頃は、先生の音を聞くだけで自然に笑顔になってしまうような、ワクワクする心や、楽しい気持ちがあったのですが、
いつからか、素晴らしい奏者の演奏を聞いていても、どことなく上の空になってしまったり、
凄いテクニックだ!と感じる気持ちはあるのですが、心が楽しくない。という気持ちも感じています。
クラシックだけでなく、ジャズのライブも聴きにいったのですが、周囲が楽しんで聞いているのをみて、自分があまり楽しめていない感覚を再確認してしまい、余計につらかったです。
素晴らしい奏者の素晴らしい演奏である事は感じているのですが、なぜか、心がワクワクしない、集中して聞けていない、なんとなくモヤモヤする。
というのが現状です。
その感情がこれから音大でやっていく事にとても不安感を作り出しています。
僕はどうしたらいいのでしょうか?
【バジル】
こんにちは。
正確に言えば、アレクサンダーテクニークにおいては、
①「やりたいこと(望み)」を定め、
②「望みを実現するための手順」を観察と実験を通じて見出していき、
③ 自分なりに導き出した「望みを実現するための手順」を全うし、
④ 進捗を測って、手順を変えたり修正したりしながら望みへと近づいていく
という考え方を取ります。
音楽の楽しさ、というよりは、①の「そもそも音楽をしたいですか」「どんな音楽がしたいですか」のところをあなたはおっしゃっていることと思います。
さて、あなたのように、音楽大学に行ってから、それ以前に感じられた素直な感動や楽しさが感じられなくなったり、音楽に対する愛や気持ちが分からなくなってしまったりすることは、実はとてもよくあることです。
しかも日本だけでなく欧米でもよくあることですから、きっと何か、音楽の専門的な学びの場の構造や社会にその根本的な原因はあるのだろうと思います。
しかしながら、わたしたちひとりひとりとしては、音楽を学ぶためにその時その場にいるわけで、背景の構造的制度的なものに必ずしもアプローチしたいわけではありません。ですから、何か問題や歪みのある制度や場のなかでも、自分という個人としては何をどのように選択するかというのが当面の個々人にとっての問題意識になろうかと思います。
わたし自身も、音楽大学に行ってから、ホルンが楽しくなくなったり、クラシック音楽を聴いても音楽に没頭できなくなったり、ということを経験しました。
それはとても辛い、悲しいことでした。
状況としてはあらゆる音を分析的かつ批判的に聴くようになっていました。
そうなっていった過程には、いろんなことが作用しました。
そのひとつひとつを挙げていくとキリがないのでやめておきますが、
根本的には、自分が何のための音楽大学に行ったのか、ということを見失い、
異なる目的に執着してしまったことだと、今となっては分析できます。
具体的には、そもそも音楽大学への進学を決意した自分なりのいちばんの理由は、
『将来、ホルンの先生になりたい』という具体的な夢と目標を中学生のときに見つけたことでした。
それが、音楽大学を目指して音楽に取り組んでいるうちに、本当に当初の夢と目標を忘れてしまい、
いつの間にか「プロのオーケストラに入る」という目的意識に置き換えられてしまっていました。
音楽大学に入ることにも、そして指導者として身を立てるにしても、
進学や仕事においては必ず競争や評価といったものはついてきます。
問題は、そういうものがあるから嫌になった、ということではなく、
「何のためなら、そういうもののプレッシャーや摩擦があっても、努力したいと思えるか」
ということです。
わたしの場合は、それが「教えること」だったはずなのに、いつの間にか「演奏すること」にすり替わってしまっていたわけです。
音楽大学に入るずっと前からそのすり替えを起きていたので、いま思うと高校生のときからずっと、苦しくて仕方がありませんでした。
大学は5年間行きましたが、4年目のはじめに、自分の当初の夢や目標がなんだったかを、あることがきっかけで思い出しました。
その直後の本番で、緊張したにも関わらず、すごく良い演奏が何年ぶりかにできました。
また、大学を出てからどうするかという次の歩みも決めることができました。
そこからまた、徐々に音楽が好き、楽しい、と感じられるようになっていきました。
でもそれは以前と同じような気持ちや感覚ではなく、分析的に音を聴くことができるようになった自分、ホルンも専門的に学び続けた自分、
自分の夢や目標を思い出し、新たな形で具現化を図ろうとし始めた自分としての、以前とは異なる(もしかしたら成熟した)音楽の楽しみ方です。
これはあくまで私個人のケースですし、意識化や言語化できる部分だけでの話です。
無意識的潜在意識的にはもっといろんなことが関係しているでしょう。
最近分かってきたのは、当時は全く考えてもいなかったけれど、
日本でもなく両親の出身国のアメリカでもなく、第3の土地に行くという、
親離れをしようという力が、わざわざドイツの音大に行った要因として働いていたと思います。
なかなか音大ではこういうことを考えよう、向き合おうという雰囲気がないのは確かですが、
でも一人の人間が、しかもまさにこれから初めて大人になろうとしている人が、
自分の意志で何かを学ぼうとし、そしてこれから生きていこうとしているわけですから、
いろんな人生の難問にぶつかるのは当然だと思います。
音楽の勉強だけでも十分大変なのにえらいっちゃではありますが、
自分にとって大事なことは何なのか、人生どうしていきたいのか、
それと向き合うことが避けられない人は多いのではないでしょうか。
そこに向き合わずに、音楽の面でだけ勝ち組になっていったひとたちで、
おっさん、おばちゃんになってから内面が幼稚なままで周りに迷惑ばかりかけていたり、
プレイベートや仕事で失敗を重ねて行き詰まっているひともけっこういますしね….
ひとまず、何か少しでも響くことや考えのきっかけになることがあれば、と願います。
【音大生】
ご返答ありがとうございます。
自分は、わたしの先生がプレイヤーとしても指導者としても、仕事として成功していて、自分自身、プレイヤーとしての先生も指導者としての先生も尊敬していて、そこに、自分もなれるのだろうか。といった不安感が大きいのかな、と思っています。
夢を見つめなおしてみると、自分は、仲間みんなで演奏出来る喜びを素晴らしいと思い、それをみんなに感じて欲しい、という気持ちが大きいのかな、と思います。
指導者になることの憧れ、目標があります。
音楽大学は、指導できる人になるための勉強というより、各個人のスキルや、演奏能力に特化していて、無意識のうちにプレイヤーになる事を強いられているような、少し息苦しい感覚があります。
もちろん、指導する立場になるとしても、自分が素晴らしいと思っていただけるような演奏や意識を持つことは必須だと思っているのですが、、、。
夢に向かって頑張りたい!という気持ちがこういった悩みで阻害されていて、頑張れないんじゃないか。と考えてしまう負の連鎖ですね。
ですが、こういった悩みや不安を多くの人が持っている、バジル先生が持っていた。そして乗り越えた。という事実を聞くだけで少し心が楽になりました。
ありがとうございます。
【バジル】
文章を拝見していると、
「他者と一緒に何かを作り上げること、そしてより多くのひとにその経験を体験もしてもらうこと」
に喜びや情熱があるようですね。
それが、
・合奏に自分が参加すること
・合奏にひとを参加させ、体験してもらうこと
という形で音楽の勉強に具現化されていて、
◎演奏家
◎指導者
という職業形態が、いまあなたがイメージできる具体的な形である、
というふうに理解することもできそうですね。
この先、たとえば演奏家になれても、もし自分が演奏する理由が『自分の演奏する楽器の可能性を追及すること』だと思ってしまうと、あなたにとっては苦しい、楽しくない、ということが起き得る。
たとえば教員になって吹奏楽部の顧問になれても『子供たちにコンクールで勝つ喜びと達成感を与えるんだ』と思ってしまうと、あなたにとってはうまくいかない、ということが起き得る。
そう考えてみることも価値があります。
逆に、
『ひとと一緒に何かを作り上げること』
の喜びはどんな方法や形で追及できるか?
と考えることもできます。
同様に、『より多くのひとにその体験を与えるにはどんなやり方が有りうるか』と考えることもできます。
その追究は、
・自分の専門の楽器を通じて
・指導を通じて
・なにか別の音楽活動を通じて
・音楽に関わるなにか別の形で
・音楽以外のなにかの形で
それぞれいろんな想像をしてみるとよいんじゃないでしょうか?
そこから、いまいる環境や状況から、自分の追究したいことはどれぐらい追究できるか?をじっくり探るのはいかがでしょう。
それで、もしかしたらいまの環境や状況は全然自分にとって意味がないとはっきりするかもしれないし、
逆に、いろいろ得られることが見えてくるかもしれないし。
想像とシミュレーションをどんどん勝手に重ねていくのは、良いかもですね。
【音大生】
バジル先生のご返信をみて自分なりに自分の楽器を好きになった気持ち、
上手くなりたいと願った瞬間、
そして今現在をみて、
自分はプレイヤーとしては『自由闊達な演奏』にとても憧れを持っていて、
音楽を楽しむという中に、自分の不自由さがとても窮屈に感じて、自在に演奏出来るようになりたいと思っていたことを思い出しました。
自分のしたい練習の目処がつき、少し心は開けました。
僕の今の気持ちには、自分への自信のなさという部分が大きく、それが音楽を楽しめない、演奏で全力を出せないという事に繋がっていると感じました。
元々公立高校から音楽大学に進学する人は少なく、ある音楽高校から多くの人が進学しています。その人たちは高校生の頃からさまざまなコンクールや試験などで演奏をしていて、経験の差。というものに大きな劣等感、焦り、一緒に練習する不安というものがあることを自分の中で再確認しました。
モヤモヤしていたものが形のある不安となり、これからの自信をつけるという点で考えて生きたいと思います。
僕は、自分 が楽しめないのに人を楽しませることができない、という感情があり、
指導の道やプレイヤーの道、他の道もまだまだ見通せないというのが現状で、相変わらず音楽を聴く中ではまだ楽しめない気持ちはありますが、とにかく自分が自信をつけられるような練習をしていきたいと思います。
【バジル】
すごく明確になりましたね。
いいですね。
個人的に色々、共感するところもあります。
自信は、他人との比較よりも、
・特別に信頼できるひとからの評価
・自分ができること
・自分ができたこと
・自分が以前よりできるようになったこと
・何であれ、形にできたこと
などから徐々に、静かに、さりげなく育つものだと思います。我々のような不安組は(笑)
ありがとうございました。
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了
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