アレクサンダー・テクニークを教えるうえでの最善のモデルは「これからこうすればよい」というものが見つかり、それをやろうとさえしていれば、「やりたくないこと」「やめる必要があること」のことを考えずに済む「新しいプラン」を提供すること。
やめたい癖、阻害要因、そういったものに注意を向けずとも、それらを変えることを最初から包含する「新しいプラン」の提供。キャシー・マデン先生が、それを徹底的にやっている。楽器演奏のような、「やっている最中からアレクサンダーを使いたい」場合は必須。
で、私もなるべくキャシー先生のやり方に倣って、「結果的に癖を抑制しはするが、癖のことは全く考えずに済んで、かつ新しく望ましいことを促すプラン」を探すようにしている。だってレッスンを受ける人からしたら、複雑な指示よりシンプルがいいに決まってる。
しかし、これを効果的にやるには非常に高い観察力と豊富な経験、そして的確な解剖学・生理学的な知識・理解が必要。いずれも私はまだまだ発展途上(なんせまだ教師1年目!)
私は、アレクサンダー・テクニーク独自の用語や節回しや手順に固執してはいけないと思っている。そのため、「アレクサンダーテクニークを全く知らなくても通じる言葉・アイデア」でコミュニーとすることを常に意識している。
その努力は、いつも報われる。レッスンを受ける人の「普段」に沿って会話ができて、「アレクサンダーテクニーク臭さ」でコミュニケーションが阻害されず、人と人としての会話が成り立ち、その中で問題解決や有益なことが生まれたりするから。
しかし、「アレクサンダーテクニーク臭さ」を避けることを目的にしてしまう傾向もある。こうなると、何となく話としては面白いかもしれないけれど、問題解決には至らずに同じところぐるぐる回る会話になってしまうときがある。
そこで、「アレクサンダーテクニークは分かりやすくなければならない」という信念を手放してみることにした。なんせ、アレクサンダーテクニークは結局「頭が動けると体全体が動ける」という、文字で書いたらなんのこっちゃ分からないことに尽きるのだから。
結局、「頭が動けるようにしてあげて、身体全体がそのおかげで動けるようになる」ということを「思ってもらう」ということが、アレクサンダーテクニークの95%であるし、これを「思う」ということ自体が、強力に「新しいプラン」なのだ。
昨日はアレクサンダーテクニークを「普通のものですよ」「怪しくないですよ」と伝えたがっている部分から反応して教えようとするのをやめ、実際に役立つ根幹的な「新しいプラン」をちゃんと伝えることにより専念した。
するともちろん、自分の気も楽だったけれど、アレクサンダーテクニークの「シンプルなのに、なんだか奥が深くて分からない!」そんな面を受講者は「怪しい」と感じているのではなく、「面白い!」と感じているのに気付いた。奥深いから、知的好奇心が刺激される。当たり前か。