自省録 No.1 「レッスンの質を決めてるものは?」

4月に音楽専門アレクサンダーテクニーク教師養成コースで教えるようになるのもあるので、「アレクサンダー教師」としての自分を考え、理解し、成長するためにもこういうメモをできるだけ毎日付けてみようかと思います。

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きょうは朝、体験ワークショップ。夜は朝日カルチャー。自分の頭を動けるようにし、身体全体を動けるようにしてあげ、それが結果的にどんな動きや感覚をもたらすかに予測や期待をとにかくしない。それができているとき、自分はずいぶんうまく動ける。

それが薄れ、ぼやけると、ちょっと腰が張ったり、ちょっと顔が火照ったりした。自分の頭が動けて、身体全体を動けるようにしてあげる。それに徹して、それに生徒さんも招待する。シンプルにそれをやっているときが、レッスンの効果もベストな気がした。

ただ、頭の動きと身体全体の関係という「基本」では一見ないようなことでも、役立ったこともあった。解剖学的なちょっとした知識であったり、自己に関する何らかの信念。そこを主題にしてとても効果的で有益な場面もあった。

表面的な教え方や選択のタイプより、レッスンの有効性と有益性を左右したのは、自分自身の頭と身体の協調作用だった気がするな、やはり。そこがうまくいっていると、どんな選択も「デリケート」で正しく生徒に寄り添ったものになっていたと思われる。

一方、自分の頭と身体の協調作用をケアし管理し働きかける事がぼやけたり揺らいだときに、教え方の選択自体がイマイチだったり、伝えるべき事は的確でもその伝え方にデリケートさを欠いているというようなことが起きていたかもしれない。

自分のレッスンの表面的な結果や有効性の優劣/良し悪しだけを見ていると、「あー、あれはあかんかった」「あれがダメだった」とダメ出しが始まってしまい、自分を疑い始めてしまう。しかし、そのときの「自分の使い方」に着目すると、原因がよく分かる。

レッスンの進め方の選択や質、有益性などの特定の結果をもたらすに至った「過程」が見えてくる。すると、やっぱり「自分の使い方」の質と密接に連動している。だからこそ、レッスンの進め方そのものも、そこに徹すれば、生徒への敬意を欠かさないものになる。

そして、何と言ってもレッスン自体が、「シンプル」で「分かりやすく」て「持って帰れる」し「面白い」ものになる。教える私自身の「自分の使い方」がそれができるかできないかに深く関る。

教師になって9ヶ月。はじめて、「レッスンがうまくいったかどうか」の向こうを考えるようになったのかも。

あと、「避けたいこと」を明確に浮かび上がらせることは「認識」を助けるうえで有効だし重要なこともあるが、それの100倍くらい明確に印象づけたい/記憶に残したいのは「代わりにやりたいこと」の方なんだよなあ。そういうレッスンには、教師の覚醒が必要!

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