1年近く更新していなかった、この 「F.M.アレクサンダー×管楽器演奏」のシリーズをぼちぼち再開します。アレクサンダー・テクニークを発見し整備して発展させた F.M.アレクサンダーの著書を読み、管楽器演奏の言葉に即して解釈して行くものです。
きょう読んでいたところで印象的だったころを取り上げます。
F.M.アレクサンダーはこう書いています。
・声を出そう、と思ったときに、身体全体を縮め緊張させるような「反応」を自らしていた。
・つまり、声を出そうという自分の意図に対して、反射的本能的に「やる」ことがこれであり、困った事にこれこそが声を出にくくさせる。
・しかし、この「反応」がこれまで「当たり前」にやっていたことなので、たとえ声を出すのにマイナスでもこれが「普通」であり「正しい」と本能的に感じる。つまり、声を出す「感覚」がこれであり、困った事にその感覚は声を出すためには当てにならない。
これ、「声を出す」を、「音を出す」に置き換えると、管楽器を演奏するひとにとってもそのまま当てはまりますね。高音を演奏しようとしたり、フォルティッシモやピアニッシモが楽譜に書いてあると、身体をギュッと固めてしまいがちですよね。
じゃあどうすればいいのか?
F.M.アレクサンダーは次のように述べます。
1:反射的本能的な反応をいったん抑制する必要がある(「やめる」「やらない」と言う意味です)。
2:そして本能的に「当たり前」「正しい」「いつもの通り」と感じるが故についつい感じたくなるいつもの「感覚」に置き換わる何かが必要である。抑制したら、いつもの「反応」の「代わり」が必要という意味。
3:その「代わり」とは、声を出す事に必要なこと/見合ったこと/役立つ事である必要がある。
4:これらは、理性的に分析した結果見出せるものであり、「声を出す」ことに適した「手段」である。この「手段を実行する」ことに徹する必要がある。
5:その手段を意識化して、意識的に考えながら実行する必要がある。
とっても分かりやすい話です。管楽器の演奏に置き換えてみましょう。
例えばオーボエ。高音を吹くときに、顎をどうも引き過ぎてしまい、首や背中が力んでしまって困っているとしましょう。上の1?5を当てはめてみると、
1:さあ高音を吹こう、と思ったらまず起きるのが「顎の引き過ぎ、首と背中の力み」ですから、とりあえずこれを「やめる」。
2:やめることはできても、オーボエで高音を鳴らす「感覚」はこの「力み」のうえに成り立っているので、やめちゃうとどう吹いたらいいかが分からない。つまり「顎の引き過ぎ、首と背中の力み」を伴う今までのやり方の「代わりの方法」が必要になる。
3:その「代わりの方法」は、オーボエで高音を出すことにつながる、必要がある。オーボエで高音を鳴らすのに必要な「作業」「動き」の組み合わせである必要がある。
4:その手段とは、
A:上下のリードの閉じ具合を強めるべく、口/唇を閉じる働きを増やす。
B:その分、息を吐く力を増やす(お腹)。
C:高音に必要なリードとアンブシュアの角度、手首、腕、頭を使って自由に作る。
である。
5:これを意識的に考えながら(思いながら)オーボエで高音を鳴らそうとしてみる。
ということになるのです。
まさに、メンタルとフィジカル両方の総合教則本、という感じがしてきて面白いですね。F.M.アレクサンダーは、
「声を出そう、という意図に対し適切に反応するためには、反応を本能的で不合理なものから、意識的で目的に対して理にかなったものに置き換える必要がある」
と述べます。
楽器でも全く同じです。
「高い音を出そう、としたときに身体でやることが、身体を不必要に力ませ音を出しにくくさせるという本能的なとっさの反応から、実際に高い音を出し思い通りに使うことにつながるような身体の使い方に置き換える必要がある」
ということです。
さあ、ではどうやって置き換えるのか?そこをアレクサンダーは次に述べ始めますが、ここの実践が一筋縄ではいかず、とても面白いところです。それについては、また次回。