等身大奏法

アレクサンダーテクニークの学びと、アレクサンダーテクニークをホルンの演奏に役立てる取り組みを始めていまや10年目です。(早い!信じられない…) 

アスリートですら、とくに球技の場合40歳を越えてもまだ技術的進化があったり、トレーニングのやり方や球技に求められる技能のタイプによっては、体力・筋力なども向上しますから、もっと繊細な技術を用いる楽器演奏の場合は50歳や60歳になっても上達していくとしても不思議じゃないんだよな…と思います。

そんなわけで、わたしもこの10年間、ホルンとアレクサンダーテクニークの両方が上達したり、理解が深まるといったことがしょっちゅう起き続けているわけですが、繰り返し「同じところ」に戻ってくるタイプの進歩や理解があります。

この 繰り返し「同じところ」に戻ってくる というのは、ぐるぐる同じところを回って成長しない、という意味ではなく、自分が上達し変化し知識や経験が増えても、次の気づきやブレークスルーを体験するときに、同じような発想や感覚をもう一度新鮮に思い出す ようなものです。

わたしにとってのその「同じようなところ」がどれぐらい個人的で、どこまで普遍性があるかは全くわからないのですが、なんだか深いことであるからこそ非常に個人的であると同時にどこか他のひとにも通底する何かがあると思うので、そのことを書き記してみようと思います。

【自分に時間と空間を与えてみた】

きょうもその「同じところ」にまた行き着いたのですが、それは「自分の等身大」をすこし見つけることができたからだったように思います。

ホルンの練習をする前から、なんだか気持ちが焦るような、先走るような、いろいろ責任みたいなものを抱え込むような気持ちが続いており、そのせいで、まだ昼にも関わらず体に疲れすら感じていました。

そこで、ちょっとソファに横になって、自分に時間と空間を与えるよう意識してみました。いろいろなことを考えたり焦ったり何かに取り掛かったりしてしまいそうだったので、とりあえず自分に20分間、ただそうやって横になって自分をなんとなく観察し続ける約束をしました。

すると程なくして、焦り/プレッシャーの隙間に、ただもやもやとぼーっとしていて、言葉にはできないけれどただ単に感覚や感情を感じている自分があるように感じられてきました。

それは思考が、何か責任や「やること」に向くと気づけば見えなくなり、反対にただ時間と空間を自分に与えるとまた見えてくる、そんな感じがしました。

この、焦りやプレッシャーの隙間に見えていて、感じられているのが、「自分の等身大」なのだと思いました。

20分して起き上がると、劇的ではないけれど確かに頭が落ち着いて、身体もあまりそわそわしなくなっている感じがしました。

【等身大で演奏する】

とくにすごく楽器を練習するやる気を感じていたわけでもなかったですし、その日どんな練習をしたりどんな音をイメージしたいかというアイデアを持てていたわけではないのですが、長年の経験から基本的に自分は毎日練習したがっていることを知っているので、ホルンの練習をすることにしました。

前日は前日でよい発想や気づきがありましたし、この1週間ほどでうまく言語化できるようになってきた「練習の設計法」があったので、それを意識しながら練習を始めそうになりました。

しかし、その瞬間からまた焦り/プレッシャーのような心身の感覚が生まれてきたのが分かりました。

とくにハッピーというわけでも、クリアになっているわけでもないけれど、どこか落ち着いた「等身大の自分」から離れていくのがよく分かりました。

そこで、意図的に「等身大の方へ」戻ってみました。

その「等身大の自分」のまま、

なにを吹こうかな?

と思ってみました。

すると、いつもよりすぐに、音/フレーズがその問いへの答えとしてサッと思い浮かびました。

そしてそれをすぐに「等身大のまま」演奏してみる、ということをきょうは繰り返してみました。

【変だし、頼りないし、姿勢も悪い感じだけれど….なぜかすごく良い】

このやり方で構えて、吹こうとすると、

・いつもとちがって「正しい」感じがしない。
・妙に力が抜けちゃっている感じがする。
・姿勢が左右非対称で、背筋も曲がっている感じがする。
・いつもより脇が閉じているような感じがする。

ので、正直なんだか不安で頼りないな、と受け取ります。

しかしその反面、

・体がラク
・頭の中が静か
・気持ちがラク
・音や結果に関する不安が少ない

のです。

それでいざ吹いてみると….

・ そんなにぎちぎち、ガチガチにコントロールしなくて済む感じ
・ 冷静に評価すると、音が外れるリスクが少ない
・ 音程、響き(音質)、音楽性がいずれも向上する

という「結果」だったように思います。

【実は知っている、なじみがあるこの感覚】

この感覚やこの現象は、経験するたびに新鮮で、よく分からなくて戸惑います。

でも、この経験自体はよく知っているものだよな、と思うのです。

だから

「ああ、またここに戻ってきたか」

という感想になります。毎回。

あがり症を乗り越えられるときもこのときだし、20歳のときにホルンに関して深刻な背筋痛・腰痛と抑うつ症状に苦しんでいたのから脱する道筋も、この「等身大」にありました。

この「等身大」というものは、わたしにとって、そして多くのひとにとっても、身体的な意味合いと心理的な意味あの両方があると思います。

身体的には、自分の体のサイズや形、機能に関して「足りない」とか「欠陥がある」と思っているともっと大きく、強くなろうとします。その時点で等身大から離れます。

そして、そもそも「足りない」「欠陥がある」という認識自体が、ほんとうの自分を過小評価しているという意味でやはり等身大を見失っているのだろうなと思います。

こんなのでは足りない
自分は能力がない
自分は欠陥人間だ
自分はダメだ

そんな「想い」が、身体に限らない「自分自身」を過小評価しているという意味で、心理的に等身大から離れているとも思います。

【自分の輪郭】

わたし自身は、この「等身大」がいちばんうまくいくとわかっているのに、しょっちゅうそれを見失っています。

それは、これがいちばん良いからこそ、それでもできないことや至らないことがあることを受け入れられないからなのかもしれません。

等身大は、大きなポテンシャルであると同時に限界(境界・輪郭と言った方がよいかもしれません)だからなのでしょうか。

自分の輪郭をより確かに知ることで、できないと思っていたことが実は全然できることがわかってくることもあれば、

やらねばいけない、できるべきだ、できるようになろう、と思っていたことが自分にはいまこの瞬間はできないし、望んでいるタイミングではできないだろうということもわかってくるのかもしれません。

もがき、あがくから、できるようになったことや学んだこと、いまに活かされていることがたくさんあることは確かです。

けれども、もしかしたら30歳という年齢は、そろそろ自分の輪郭を受け入れて、もう少し肩の力を抜いてやっていくしかない時期の始まりなのかも?

そんなことを考えたりしました。

同時に、もっともっと若くても輪郭を知って等身大になることは絶対良いことだろうな、とも思いますし、もっともっと歳を重ねても等身大を見失いながら再発見していく旅路を続けるのもよいことだな、とも思います。

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