体の動きによって音が生み出される。
その体の動きは何によって生み出され、調整されるか?
それは知識や奏法論ではなく、音のイメージ・ソルフェージュであると考えるのが、アーノルド・ジェイコブズ〜ロジャー・ロッコの系譜。
この系譜においては、演奏に伴う筋肉の感覚や触覚なども含めた肉体感覚は、音のイメージやソルフェージュとは関係がなく、音を生み出す作用も、音を生み出す体の動きを生み出す作用も、調整する作用もないと考える。
したがって、違和感や不快感などに注意を払う必要はなく、違和感や不快感が感じられている中でも、ソルフェージュが明確であれば、違和感や不快感が全くない時と変わらない演奏が普通にできると考える。
この系譜における考えで進めていくと、音が出たりうまく出た時の肉体感覚の印象を覚えておき、その肉体感覚の印象を再現することで音の結果も再現しようという発想は消えていく。
アレクサンダーテクニークの世界においては、おそらく過半数が体の感覚に注意を払い、体を意識することに取り組む。
一方で、もともとアレクサンダーテクニークでは「感覚があてにならない」という重要な着眼点が重視されている。マージョリー・バーストウ→キャシー・マデンの系譜においては、この流れから肉体感覚に意識を向けることは促されない。
肉体感覚は、運動や意図・思考の形成が行われたわずかながらも後に感じられるものであり、結果であって、やりたいことを実行するためのガイドにはならないと考える。
ここにおいて、ジェイコブズの哲学とアレクサンダーテクニークの考え方は興味深く一致する。
私自身は、個人的経緯と経験から、ジェイコブズの理論と、バーストウ→マデンの系統のアレクサンダーテクニークが、私が触れることができた他の奏法論やアレクサンダーテクニークの流派よりも有益であり、納得度が高かったため、私自身の考え方や感性はこれらに傾いている。
このような背景の中で、知識や奏法論の役割は何になるのか?
ジェイコブズ→ロッコの系譜においては、実際に楽器で音を出すフェーズにおいては、体に関する知識や、アンブシュア・呼吸法・姿勢などの奏法論は無益であり、音のイメージやソルフェージュに向けるべき思考の邪魔をするという点で、有害であるとすら位置づける。
体の使い方のメソッドであるアレクサンダーテクニークの教師である私が、この考え方に強く共感し支持することに、混乱を感じる人もいるかもしれない。
実際、ジェイコブズの弟子や、その弟子の人々の中には、「アレクサンダーテクニークは演奏の役に立たない、むしろ邪魔になる」と考え、そう述べている人たちもいる。
先述の通り、体の感覚に意識を向けることに取り組むタイプのアレクサンダーテクニークであれば、その通りだということになる。
一方で、バーストウ→マデンの系統のアレクサンダーテクニークでは、体の感覚に意識を向けない。
そして、「音をイメージする・ソルフェージュする」というアクションにおいて、必要に応じて活用できるタイプのものである。
それゆえに、ジェイコブズ→ロッコの考え方と矛盾せず、阻害もしない。
それがどのようなアレクサンダーテクニークなのかをここで説明するには長くなりすぎるため、知りたい方には導入的な説明動画を紹介する。コメントやメールで要望をいただければと思う。
ただし、それだけですべてが説明されるわけではない。和訳がまだされていないのが残念ではあるが、キャシー・マデンの著書を読んでいただきたい(あるいは私のレッスンを受けに来ていただいてもよいが、これは勧誘のための文章ではない)。
話を元に戻して、ジェイコブズ→ロッコの奏法論、バーストウ→マデンのアレクサンダーテクニークに共感し支持する私が、体に関する知識や、アンブシュア・呼吸法・姿勢などの奏法を、2026年4月末日時点でどのように考えているかを記す。
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①奏法論の多くは現状、有害無益
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アンブシュア、呼吸法、姿勢のいずれについても、奏法論の多くが
・現実に存在する多様性を考慮せず、特定の限られた人にのみ効果がある形ややり方を推奨している
・特定の人には効果的で成功事例もあるが、数多くの失敗事例もある。しかしそれらが十分に考慮されているようには見えない
例
◎マウスピースの中の上唇の割合は2/3以上でなければならない
◎アンゼッツェンでなければならない
◎呼吸法は腹式呼吸でなければならない など
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②正確または多様性包摂的な奏法論の有益さ
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①の現状において、現実の多様性をより反映した相対的に正確な奏法論は、狭く不正確な奏法論に基づいて取り組んでいる結果、演奏に支障をきたしている場合において、その影響を中和し打ち消すことで、本来の機能していた状態やポテンシャルに戻る・近づくという有益性がある場合がある。
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③奏法論は本来不要。かつ、正確でも演奏の局面では有害。
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ジェイコブズ→ロッコの教えに則れば、そして私自身の実体験においても、アンブシュア、呼吸、姿勢などの奏法論は一切なくても問題はない。
奏法論が音を生み出す体の動きを発生させたり調整したりしているわけではなく、それを担っているのは音のイメージ・ソルフェージュであると考える。
したがって、たとえ非常に正確で包摂的な奏法論であっても、演奏の局面でそれらを意識することは、音のイメージ・ソルフェージュを阻害し、すなわち演奏そのものを阻害する。
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④体についての知識や奏法論の有益性はどこにあるのか
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②において、奏法論の中和的な価値を認めた。体の知識についても同様の価値があると考える。アレクサンダーテクニークから発展したボディマッピングの効果や価値もそこにある。
しかし、それだけではない。
音のイメージ・ソルフェージュこそが重要であり、演奏のメカニズムを作動させ、正しく調整するというジェイコブズ→ロッコの教えは、脳科学的な観点からも裏付けられる。
科学とは知識である。
物事がどのように成り立ち、どのように作動し、どのように作用しているかを理解することは、「やりたいことをどう実現するか」という問いに対して非常に有益である。
実際、ジェイコブズは解剖学や生理学に非常に深く通じていた。そうした背景があってこそ、「奏法論は演奏において無益・有害である」という考えに至っている。
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⑤物理的に介入する時
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私はレッスンにおいて、受講者の動きや身体に触れ、動きを導いたり、制限したりすることがある。
これは、狭く不正確な奏法論が原因の場合もあれば、別の要因の場合もあるが、何らかの理由で受講者にとって機能的でないやり方になっていると判断したときに行う。
その動きを制限したり、別の動きを導いたりすることで、現状よりも近似的に、その受講者にとって自然で有益と思われるやり方を、短時間だけ体験してもらうことを目的としている。
ここで「近似値」としているのは重要なポイントである。
たとえ大きな改善が見られても、それはあくまで私という外部の存在による推測的な介入であり、完全に一致するとは考えていない。
完全にその人にとって最適なやり方は、その人自身の音のイメージとソルフェージュ、神経系および身体によってのみ生み出されるものであり、他者である私が完全に知ることはできない。
したがって、物理的介入のメッセージは「このようにやりなさい」ではない。
一時的に脱線や悪影響をリセットし、その瞬間に得られた改善や成功を、その人が本来持っているポテンシャルの現れとして、新しい自己イメージとして支える、というものである。
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以上が、現時点での最新版としての、私の楽器演奏およびレッスンに対する考え方である。

