【緊張・あがり症についての総論③】

前記事では、わたし自身のあがり症問題について、初めて経験した6歳のころの記憶からスタートして、音大時代を経て30代なかばに至るまでの実体験をお話しました。

今記事では、30代後半から40歳現在にかけて、もっとも直近の体験と理解をお話したいと思います。

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【初めてのリサイタルで挫折】
35歳のとき、或るクローズドな場において人生で初めてのリサイタルを演奏する機会を頂きました。

このリサイタルは、手痛い挫折体験となりました。

実はこのリサイタルの場は、音楽を演奏されている若い方々が聴衆であったのですが、その方々に向けて、リサイタル演奏の前にまさに『緊張・あがり症問題についてのレクチャー』をしてほしいという依頼であり、レクチャーとリサイタルのセットの依頼だったのです。

テーマがテーマだけに、緊張・あがり症についてレクチャーをしたその当人が緊張に呑まれてしまうわけにはいかないということでハードルが上がってしまった・・・というようなことは実のところまったくありませんでした。

レクチャーの内容と関係なく、リサイタル3ヶ月前のピアニストの方との合わせの時点で、緊張してうまくいかなくなる感覚がありました。

前記事で、わたしの場合は緊張を乗り越えるうえで重要なのが「開き直ること」であるということは述べましたが。音大入試、プロオーケストラでの客演演奏、オーケストラをバックにソリストとして協奏曲を演奏する機会など重要局面において「ダメでもともと」という気持ち、そもそも自分自身に期待しない態度のようなもので以て臨むことができていたのです。

しかし、このリサイタルに至っては、何故かそのような心の境地ではいられなくなっていました。

物事があまりにもうまくいっていなかった音大時代、わたしは卒業後には演奏の仕事やキャリアは望むべくもないものであると完全に諦めていました。それもあってアレクサンダーテクニークの教師資格を取得する勉強へと進むことを進路として定めておりました。

それが音大卒業後、望外に演奏の仕事のチャンスに恵まれました。これはわたしにとっては棚から牡丹餅のような感覚でありましたから、本当にダメで元々だと思えたし、ひどい失敗をしたり演奏の仕事から干されてしまったりすればそれはそれで構わない、アレクサンダーテクニーク教師の道を引き続き進めばよいと思えていたのです。

音大卒業後、演奏の仕事は都合2年ほど行っていました。

そのあとは、アレクサンダーテクニーク教師資格取得のための勉強と、資格取得後のレッスン活動の構築にむけた取り組みに専念できるような環境に行ける機会を得られたので(具体的には、アレクサンダーテクニーク教師養成学校のスタッフの仕事を打診された)、それを機に演奏の仕事は引き受けなくなりました。

その2年後、つまりは音大卒業後4年で無事アレクサンダーテクニーク教師資格を取得し、また幸いなことにすぐに東京藝術大学で非常勤講師のポストを与えていただくなど万事順調なレッスン活動の船出ができました。

その後は、レッスン活動の注力しておりました。

日々のレッスン、全国各地への出張レッスン、書籍や雑誌記事の執筆、私自身のウェブサイトやSNSへのコンテンツ投稿・・・講師業に全力を注ぎ、忙しい日々を過ごしていました。

それでも、ホルンへの興味と、演奏能力の向上の意欲は失うことはなく、毎日欠かさず練習もしておりました。

そうして音大卒業からは10年以上、レッスン活動が本格化してから5年以上が経った頃、リサイタル(と、セットのレクチャー)を依頼されたのです。

リサイタルは「ホルン奏者としての夢」の一つでした。協奏曲の演奏や、プロオーケストラでの客演など、諦めたはずのホルン演奏活動なのに叶った夢がいくつかあったわけですが、リサイタルはまだ叶えていませんでしたから、二つ返事で引き受けました。

前置きが長くなりましたが、このリサイタルでの演奏が、私のとっては大きな挫折体験となりました。

もちろん非常に緊張しましたが、それは想定内でしたし、実際にそのとき見られた緊張の症状や現象は過去に経験したことのあるものばかりでした。

ですから、どうにか力技でリサイタル本番をやり抜くことはできました。そういう意味では、客観的には本当にどうにもならないほどボロボロな演奏だったわけでは無かったと思います。一応、形にはなっている。

しかし、リサイタル本番の演奏中、わたしはずっと「自分の実力」を自分で直視させられていたような感覚があり、そしてその実力が自分で自分に期待していたものより大きく劣るものである感覚があったのです。

それは、自分自身への失望であり幻滅だったように思います。

そう思う、という言い方になるのは、リサイタルから4年以上かけてそのときの経験を繰り返し分析し思索したうえで出てくる言葉であって、そのときは自分が何を感じているのかはっきり分かっていなかったからです。

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【現れてきた身体症状】
リサイタルを実行できたこと、
緊張しながらも本番を遂行できたこと。

そのことには一定の達成感があり、またリサイタルの準備はほぼ1年かけて重ねていましたから、それが終わったという解放感もありました。

一方で、自分の実力への失望から、何を目標にどのように今後は日々練習すればいいのかということが分からなくなっていました。

これまでは、あくまで「技能向上」が常に意識にあり、興味の対象であり、日々の練習の励みになっていたのですが、リサイタルをやるような力は自分に無いと感じたことで、それまでの日々の取り組みの価値が揺らぎました。

また、リサイタルを終えた次の日から、お腹の奥深くに変な「重さ」のようなものを感じました。

その「重さ」が首や喉を下に引っ張りこむような嫌な感覚がありました。

はじめはあまり気にしていなかったのですが、目標や目的を見失い、練習時間の中身がどこか闇雲に吹くだけのような感じに変質していたのと合わさったことで、リサイタルからおよそ1ヶ月後、突然、頬に刺すような痛みが走りました。

その翌日からは、頬だけでなく顎、喉、首にも刺すような痛みやヒリヒリする痛みが走るようになりました。

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【心身症のメッセージ】
詳細の経過は割愛しますが、発症していたのは三叉神経痛および舌咽神経痛というものです。

そして、これは吹き方も無関係ではないにせよ、根本的には心身症として発症していたと今は理解しています。この理解は、前号で少しだけ触れたユング心理学に依るものです。

心身症は、心あるいは魂からのサインでありメッセージです。

このメッセージを理解すること、これがリサイタルから今に至るまでの私にとっての重要な取り組みであり豊富な学びの源となっています。

ただ、そのように言えるようになったのも数年かけて少しづつ(でも着実に)症状が減り、また症状が出てもその受け止め方が分かるようになっているからこそで、ここに至るまでは筆舌に尽くし難い混乱と絶望を経ています。

はじめは、ホルンを吹くのはもうやめたほうがいいのかな、と思いました。

リサイタルで挫折し、そして体が痛いのですから。

しかし、心身症のメッセージは逆のようです。何を言っているかいうと、「諦めるな」ということです。

実は、三叉神経痛と舌咽神経痛を発症後、それでもホルンを吹くことは可能でした。演奏機能は変わらないのです。どこか怪我をしたり、炎症を起こしているわけではなかったのです。これは病院で複数の検査を受けて確認しました。

そして、この痛みを「かいくぐって」吹ける余地があって、よくよく観察しながら痛みが無い方少ない方へと進んでいくと、自分がもともと望んでいたようなホルンの響きも何故か生まれてくる様子があったのです。

ここでようやく、緊張・あがり症の話に戻ってきますが、私は「諦めること」「自分に期待しないこと」「開き直ること」で音楽人生の難局を乗り越えてきたということを前号でもお話しました。

そのやり方はもう通用しない。

それが心身症が指し示しているらしきことなのです。

なかなかまとまりの無い読みづらい内容になって申し訳ありませんが、リサイタルの挫折とその直後からの心身症の発症が、こうして緊張・あがり症問題に関して新たな態度あるいは取り組み方を私自身に要求するようになった、ということです。

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【高校時代にも経験していた痛み】
実は私にとって、ホルンを演奏するにあたっての身体の痛みの問題を経験することはこれが初めてではありません。

これ以前にも3度、心身症とみられる痛みを経験しています。

そのいちばんはじめが、高校3年の頃です。

その頃、高校卒業後は音大へ、それもドイツの音大へという選択をすることは既に決まっていました。そして高校2年の1年間の間にそれに見合うだけの実力が急速に身についていったのを覚えています。

しかし高校3年の新年度を迎えた頃から、私は大きな焦りを感じ始めていました。その焦りの中身は当時の私には到底分析して捉えきれるようなものではなかったので、それから20年以上経った今になっての分析ではありますが、育った国である日本を離れることになる自身の選択に恐れと葛藤を抱いていたのだと思います。

その心の苦しみに向き合うことができず、代わりに私がしたことは、「とにかく頑張ること」でした。自罰的で自己破壊的な根性論を自分に適用したのです。例えばそのとき取り組んでいるフレーズがあったとして、それを練習するときに少ない練習回数で成果があったとしても、回数が少ないことでもって努力も成果も否定してもっと回数を無理に重ねて、その結果質が下がってもそれは「自分が甘いからだ」と必ず思うようにし、「だからもっと回数を重ねなければならない」という態度でもってホルンの練習を進めるようになりました。

そのような無理を重ねはじめて2ヶ月ほどすると、背中が重く痛くなるようになってしまいました。いっときは呼吸をするのも難しいほどでした。

ちょうど、夏の吹奏楽コンクールの時期でもありました。

あまりにも痛くて、吹奏楽部の合奏以外はできるだけホルンを吹かないようにする(それでも合奏は毎日ありましたが)ことしか対処法がありませんでした。

音大受験に向けた練習の内容や時間については、吹奏楽コンクールが終わるまで保留することになりました。

そんな状況になってしまった自分に落ち込み、かつ強く恥じるような気持ちを抱えながら過ごした苦しいつ梅雨と夏の時期でした。

そのなかで、

「コンクールが終わったら1週間休む。休んでみて、そのあと1週間練習してみてまだ身体が痛かったり、楽器が吹けないようだったら、ホルンは辞めて音大も諦めることにする」

という落とし所、あるいや自分との約束のようなものをしました。

そしてコンクールが終わり、吹奏楽部での活動も無くなり1週間の休みを経て、家で一人で練習すべくホルンをおそるおそる吹き始めてみたところ・・・

身体の痛みはなく、力もなく、拍子抜けするほどラクに吹くことができて、数ヶ月前よりいつの間にかグンと上達していました。

おかげでこのタイミングでホルンをを辞めることはなく、音大受験へと進むことができたのですが、この危機を脱した局面でも、繰り返しお話している「諦め」「開き直り」の境地があったのです。

身体の痛みによる大きな危機は、このあと20歳のときにもっと深刻な背中の痛みを通じて、そして32歳のときには顎関節症の問題としてやってきました。

それぞれの発症と乗り越えの経緯については長くなるので省きますが、いずれもそのときの自分に重要な気づき・学びが包含されていました。

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【諦めない】
ところが、リサイタル後からの心身症については、向き合うにつれ過去とはちがって諦めが解決策になりませんでした。

どうして解決策にならなかったのか、代わりにどんな乗り越え方があったのか、については、やはりあまりに長くなるためここれは触れません。

しかし、諦めることや開き直ることを通じてではない、別の立ち位置からの「演奏すること」、そして「人前で演奏することの緊張をどう捉え、乗り越えていくか」ということについて、リサイタルでの挫折と心身症からの学び通じて見えてきたことがあります。それについては次の記事で述べます。

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この記事は、フルートメーカー「ムラマツ」の会員向け季刊誌「季刊ムラマツ」において2024年6月・9月・12月号に掲載された記事の元となったものです。
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