【緊張・あがり症についての総論②】

前記事では、私たち音楽を演奏する人々が舞台で経験する緊張・あがり症の問題について概要を述べ、おすすめの参考書籍や対処法・治療法について紹介しました。

今記事においては、わたし自身がどのようにあがり症の問題を経験し、付き合ってきたかをお話します。

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【あがり症は主観的体験】
緊張・あがり症の問題は人前に出るということをやる人の中で経験したことがない人がむしろかなり少数派なくらい、普遍的な問題だと思います。

しかしながら、その問題をどのように体験し、あるいはどのように 初めて発症し如何にして乗り越えていくか・付き合っていくかということについては、この問題を経験しているその当人一人一人のストーリーが異なるものだと私は考えています。

従いまして、これから述べることはあくまで私自身の感じてきたことです。それすらも10年前に思っていたこと解釈していたことと今とではかなり変化があります。10年後 20年後はもっと気づくことが増えて、同じ体験であっても解釈が変わっていくのは間違いないと思っております。

私自身のストーリーに重ねられる部分や、強く対比される部分などを通じて、これをお読みの一人一人がご自身のストーリーと感じ方を掴み取っていくための一助となれば幸いです。

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【初めてのピアノ発表会】
わたしは6歳になる年にまずピアノを習い始めました。その年か翌年かは覚えておりませんが、初めて発表会に出演すしました。

当日、発表会に向かう母が運転する車の中で、わたしは得も言われぬ妙で恐ろしい感覚に圧倒されていました。

下腹部の奥の方をぐっと掴まれたような感覚。そして、足元が真っ暗になり闇に落ちていきそうな感覚。

わたしからそのようなことを母に言ったのか、母がわたしの様子から察したのか覚えていませんが、母は「緊張しているのね」と言いました。

これがわたしの人生で初めての「あがり症」の体験でした。

逃げ出したいような、でもそうもいかないような、葛藤のようなとても重くて苦しい感覚があったのを覚えています。

発表会会場についてもずっと、ふわふわするようなソワソワするような、泣き出したくなるような感覚が続いていました。

舞台上でのリハーサルもあまりうまくいかなかった記憶があるような気がします。それでますます追い詰められた気持ちになりました。

本番が迫ってきます。

前室での待機中。
そして舞台袖での待機。

ずっと、怖い。
泣き出したい。
逃げたい。

しかし、不思議なことが起き始めました。

舞台袖では、自分の3人前の出番の子が演奏しているタイミングから待機していました。そのタイミンが恐怖のピークでした。

2人前になると、少しだけ落ち着いたというか、これから演奏する音楽について考えが向かっていき始めました。

1人前になると、心臓のドキドキはすごくありますが、恐怖感が減っていました。そして演奏に対しての集中力が湧いてきていました。

そしていよいよ自分の番になったときです。

暗い舞台袖から光の当たる舞台へ一歩踏み出すその瞬間。

ドンと勇気の流れのようなものが突き上げてきて、生まれ変わったのような感覚で舞台に歩み出しました。

音楽と、音楽を聴衆に向かって全力で表現することに意識が力強く向かっていきました。

おかげで、ダイナミックに堂々と演奏することができました。

母も、当時のピアノの先生も、本番が素晴らしかったと褒めてくれた記憶があります。

わたしの初めての人前での演奏は、強いあがり症の体験と、それを乗り越えてすべき音楽をやり切る体験の、両方がそこにあったのです。

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【あがり症がこじれはじめたきっかけ】

6歳のこのとき以降、毎年毎回、ピアノの演奏はかなり緊張しました。

しかし、ほとんど毎回、この原初体験と同じように、いざというときには勇気や集中力が湧いてきて、心を込めて演奏することができました。

曲がり角は、中学2年生のときにやってきます。

中学生になって吹奏楽部に入り、ホルンを始めました。

ホルンを始めて2年目の後半、「アンサンブルコンテスト」に出場する機会を得ることができました。

それまでは吹奏楽部数十人の合奏の中の一員として演奏するだけでしたが、アンサンブルは少人数編成です。このときは、金管五重奏の編成で、メンバーは5人だけ。しかもホルンは自分ひとりだけでした。

それはとてもやり甲斐のあることでした。

しかし、思い返すと、このアンサンブルの練習が始まって時点で当時の私は

「本番ですごく上手に演奏して拍手喝采を浴びること」

ばかりイメージしていました。

音楽を表現し分かち合うことではなく、

「上手に演奏すること」
「すごいと思われること」

に完全に意識が向いていました。

それ故にうまくいかない、あるいは音楽の演奏をするにあたって必要なことはそのようなことではない、ということを明確に、言語化できるレベルで理解したのはこの24年後の38歳のとき(つい一昨年!)です。

いまから見れば当然ですが、アンサンブルコンテストの本番、わたしは

・音がうまく当たらない
・音が震える
・手足が震える
・口がパサパサに乾く

という状態に陥り、自分の演奏能力をかなり下回る演奏をしてしまいました。

そのことがこれ以降、大きなトラウマとなり、ホルンで人前で演奏するときに中学二年生のこのときに体験した状態が再現されてしまうのではないかという恐怖を今に至るまで感じるようになりました。

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【開き直り体験】
この中学二年生での体験以降、中学高校の吹奏楽部時代そして音楽大学(正確にはエッセン・フォルクヴァング芸術大学)を卒業するまで、

・同じような緊張と身体症状が起きて、そして演奏がボロボロになる
・同じような緊張と身体症状は起きるが、かなり良い演奏ができる

ということのどちらも何度もありました。

その後者については、一度の例外を除き、一つの決まったパターンがあったことをもっと後になってから認識しました。

そのパターンとは

『プレッシャーがいくところまでいって、開き直ったとき』

でした。

象徴的な『開き直り体験』が2つあります。

一つは、高校3年でソロコンテストに出場したときです。

京都府代表に選ばれて関西大会という上位大会でのこと。

わたしの出番の2つ前くらいに、今は東京都交響楽団ホルン奏者として大活躍している岸上穣さんが演奏していました。わたしたちは年齢が一つちがいで、これ以前から知り合いで、今でも大変仲の良い友人です。

岸上さんの演奏を舞台袖で聴きながら自分の出番を待っていましたが、岸上さんの演奏があまりにも完璧で、わたしは聴きながら

「こりゃかなわん!」

と思いました。

すると、体の力みがス=っと消えていき、心配ごとも無くなり、舞台に出てからはとてもラクに演奏でき、出来もとても良いものになりました。

結果としては、優秀賞というものを頂くことができました。

もうひとつは、大学受験での演奏のときのことです。

このときもやはり、プレッシャーを感じすぎて、控室で

「ああ、もうダメだ。終わったな。もうあとはボロボロの演奏をして、日本に帰って、浪人して一般の大学受験をすればいいや」

と、完全に諦めの境地に至りました。

するとこのときも、同じように力がスーっと抜けて、受験本番が練習より良い出来の演奏ができました。

そのおかげかどうかは分かりませんが、受験に合格し、エッセン・フォルクヴァング芸術大学に進学することになりました。

その後の大学生活は、私の人生にとっての圧倒的暗黒時代で、詳しくは述べませんが、卒業の頃には完全に自信も希望も失っており、日本に帰国後は演奏活動をするつもりは一切ありませんでした。

にも関わらず、大変ありがたいことに演奏のお仕事の機会を頂いておりました。

ここで不思議なことに、自信も何もないのに、演奏の仕事は、オーケストラバックの協奏曲のソリストの機会も含めて、それほどボロボロの演奏になることはありませんでした。

それは何故かといえば、この時期には自分の能力について諦めの気持ちでおり、ダメでもともとという「開き直りの気持ち」が恒常的になっていたからです。

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【開き直りの限界】

このように、窮地を何度も救ってくれた「開き直り」の状態ですが、そのような開き直りは、若いうちだからこそ出来たことのようで、もっと自分の道を進み自分の生き方を積み重ねるようになった30代後半の頃には通用しなくなりました。

そのことについては次の記事で詳しくお話します。

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【自分らしさとの一致】
この記事ではもう一つだけ、緊張・あがり症の問題における私にとっての象徴的な体験をお話します。

大学時代のことです。

実は、大学入学後、大学で師事していたホルンの先生からの誤った技術的指導の影響で、私の演奏能力は非常に低下しました。

先程暗黒時代と述べたのは主にこのことです。

それもあり、プロのホルン奏者という夢は、大学時代の終盤には薄くなっていました。

このような大学時代の最中にありながらも、私は本番ですごく緊張して大失敗することを繰り返すのをどうにかしたくて、音楽家向けのメンタルトレーニングを教えているフルート奏者を見つけて教えを乞いにレッスンに通い始めました。当時デュイスブルク在住のペトラ・ケースラー先生という方です。

しかし、様々なテクニックを教えてもらい、それらをフル活用して何度か本番に臨んでも、良い結果にならないことが続いていました。

それをその方に伝えると、

『おかしい。ここまで通って結果が伴わない人は初めてだ』

と言われてしまいました。

おいおい、俺は前代未聞にダメなのか!?と思いましたが、その次に続いた言葉がありました。

『あなた、もしかしてホルン奏者以外に人生を生きる道がないと思っているんじゃない?』

わたしは、そうだ、当然だ、と答えました。

そう思っていました。わざわざ日本を離れ、国籍のあるアメリカにも行かず、ドイツに来てホルンの勉強をしてしまっているのですから。

しかし、メンタルトレーニングの先生はこう言うのです。

『そんなの、失敗するに決まっている!どうなるか分からない音楽家というキャリアにチャレンジする人こそ、他の道、他にもできそうなことややりたいことを2つ3つ考えておくものなのよ!』

と。

そしてこう問われました。

『本当に、他に何もしたいこと、興味を持っていることはないの?』

と。

・・・その問いこそが、決定的でした。

そう問われて考え始めてすぐ、心がスーッと開いていくような感覚を感じたのを覚えています。

そして、ふと思い出すように、

《そういえば、アレクサンダーテクニークという身体の使い方のメソッドを専門的に勉強して、教えられるようになりたいと思っている》

ことに気がついたのです。

それを先生に言うと、

『次の本番までに、その進路について調べてきなさい!』

と宿題を出されました。

帰宅するなりわたしはその宿題に取り掛かり、日本にもアレクサンダーテクニークの教師養成校がいくつかあることを知りました。

そして、大学を卒業した後の次のステップとして、それに取り組むぞ!というビジョンがはっきりと見えました。

すると、非常に心が軽くなりました。

大学で師事していたホルンの先生にも、そうしようと思う、ということを伝えました。

その後迎えた次の本番。

いつものように心臓はドキドキ、口はパサパサ、手足はガクガクブルブルしていましたが、

本当に不思議なことに、すんなりと音が出て、しかも『失敗しても別に全然いいや』と思えていられて、

大学に入って4年目にしてはじめて、納得感のある本番の演奏ができました。




この体験を、私は「自分らしさから乖離しないこと」ではないのか、と考えています。

ユング心理学で言うところの「自我=Ego」と「自己=Self」のうち、後者の『自己』の声、像を聞いて・見ることができた瞬間だったのではないかと今は考えています。

やはりユング心理学で言うところの「Calling」に従ったということでもあるかもしれません。

そのあたり、ユング心理学は私は2年近く心理分析を受ける形で学んでいますが、専門家ではありません。興味や疑問を持たれた方はご自身でどうぞお調べ下さい。

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この記事は、フルートメーカー「ムラマツ」の会員向け季刊誌「季刊ムラマツ」において2024年6月・9月・12月号に掲載された記事の元となったものです。
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