歌や楽器のレッスンをしている「先生」たちが抱える不安の代表的なものが
自分がいま教えていることが、ほんとに正しいのかどうか確信が持てず、不安
というものです。
この不安には、建設的に対応できると、先生にとっても生徒にとっても非常にためになります。この不安に捉われると、先生が
・生徒に言った方が生徒のためになることを、言いそびれてしまう
・レッスン中、提案したことや試したことが少しでもうまくいかないのを避けようとし、びくびくしたり不必要に遠回しになってしまう
・生徒自身のことにまで自分で責任を取ろうとし、それはもちろん不可能であるがゆえに混乱したり、場違いにトゲトゲした物言いになり、意志に反して生徒を萎縮させてしまう
からです。
ここでは、
A:レッスンの前に、この不安を回避する
B:レッスン中にこの不安がよぎっても、的確に気を持ち直す
C:レッスンの後に、この不安を軽減する
ことに役立つ考え方やアイデアを提供したいと思います。
【ホームランを打てば、打率は低くても構わない】
この不安をもたらす最大の原因は、
生徒に対して教えることが「全て・もれなく・毎回・100%」役立たなければならない
という、非現実的な完璧主義を先生が自分自身に課している ところにあります。
先生と生徒の関係は、言語などで意識的に教えている内容以外にも、先生の価値観、振る舞い、習慣などを含めたすべてを模倣し吸収する形での学習も同時進行しています。
もし先生が、先生としての自分自身にこのような非現実的な完璧主義を課していれば、習っている生徒はそういう面を無意識的に拾い上げ、自分自身の演奏や取り組み方に対して有害な完璧主義的な価値観を作り上げてしまう危険があります。
「いかに生徒の役に立つか」を重視するならば、先生が自らへの態度として適度にリラックスして現実的かつ建設的なものを備えていることは、とても大切なのです。
生徒は、ひとりひとりが、全く独自かつ個別な存在です。
あるひとに役立ったアプローチが、別の生徒にはまったく通じないということは、当たり前なのです。
したがって、全ての生徒に対し、その生徒と出会ったいちばん最初から、なんの瑕疵もない「レッスン」を完璧に行うなどということは、期待するのも馬鹿げている面があります。
大切なのは、その生徒の、その日その瞬間を
・観察し
・分析し
・現状を変えるかもしれない何らかの実験
をすることなのです。
実験は最初から「ズバリ当たり」になることもありますが、「ハズレ」になることもあります。しかし、ハズレの実験をしても、実験結果からよりよいアプローチが絞り込まれてくるので、どんなハズレでも実質的には大当たりに近付く欠かせない一歩として機能しているのです。
先生としては、「あ、いまのはあまり役立たないよね、ごめんね!ちょっとちがうことを試してみようか」と、ハズレの提案を行ったことを さっさとあけすけに認めてしまう ようにすれば、生徒は逆に安心して実験のプロセスに同行してくれるでしょう。その試行錯誤のプロセスそのものから、生徒自身が多くを学びます。
体面、面目、威厳、そんなもの要りません(笑)
レッスンというものは、
「ちょっと役立つかな」
「なんとなく良いかな」
という程度のことを得て帰るより、
「うわ!これはめっちゃくちゃ役立つ!」
という発見やアイデアをつかむ方が、遥かに生徒の為になります。
ですから、低打率で三振続きでも、どこかで1本ホームランを飛ばすことが、レッスンでは重要なのです。
ただし、一度の中でホームランが出なかったとしても、基本的には大丈夫です。本来レッスンは、単発で受けるものではなく、継続的に受けるものであり、「またこの先生のところに来る」というコミットメントとそれを支える先生と生徒の間の信頼関係がありさえすれば良いのです。
「この1レッスン」「この1打席」で絶対ホームランを飛ばしてやろうとすると、力んでしまって逆効果でしょう。目先の結果を追わず、ただ黙々とバットを振り続ければよいのです。ただし、狙いは毎回、ホームランです。
【正しいかどうかではなく、役立つかどうか】
「自分がいま教えていることが、ほんとに正しいのかどうか確信が持てず、不安になる」という悩みは、 「正しいことを教えようとしている」こと自体 にも原因があります。
「正しい」かどうかは、非常に曖昧です。
音楽のレッスンで大切なのは、言っている事ややっていることが「正しい」かどうかではなく、
・生徒の奏でる音楽がよくなるかどうか
・生徒にとって音楽が奏でやすくなるかどうか
・生徒が音楽をもっと奏でたくなるかどうか
なのです。
別の言い方をすれば、生徒が
・音楽/表現/音の質がよくなる
・ラクになる
・楽しくなる/ハッピーになる
そのいずれかまたは全てを目指すべきなのです。
「教えている内容が正しいかどうか」という気にし方自体が、音楽または音楽をするひとのことを第一にしておらず、権威・派閥・教条といった側面がチラつく意識の持ち方なのです。
あらゆる常識(と思われる)、教則本、教わってきたことに反しているように思えても、目の前の生徒の音や、生徒の体感していることこそが、先生であるあなたが教えていることがそれでよいかどうかを示しています。
絶対正しい教え方、なんていうものはありません。「教授法」や「奏法」と名のつくものは往々にして、ある傑出した個人の「個人的経験の積み重ね」や「好み」「性格」が色濃く反映したものです。
とくに西洋音楽に関しては、日本の伝統芸能とちがって、教え方と芸術自体が結ぶ付いたかたちで保存され積み重ねられてきたような「教授法」そんなにありません。伝統的な教授法といっても、たいていそんな古くなく、伝統というより少し古ぼけてきた「昔の先生の教え方」なのです。
ですから、いまリアルに教えるという活動に携わっている先生方がどんどん、自ら工夫し、新たなアイデアをどんどん実践することでこそ、「昔からの(正しいとされている/そんな気がする)教え方」に良い意味でのふるいがかけられ、磨きがかけられます。
正しいかどうかを気にするのは、ある意味、原理主義的な態度であり、頑ななのです。自分自身が、自分自身に対して原理主義的なプレッシャーをかけていると、教えていて不安になってくるのも無理ありません。
【自分に本当に役立つことならば、生徒にも必ず役立つ】
先生が、「きょう・いま・この瞬間」において、目の前のある生徒や、その生徒が固有に抱えている問題や困難、あるいは生徒の感じている疑問や質問に対して 答えを持ち合わせていないのは、ごく普通で自然なこと なのです。
先生という仕事、教えるという活動もまた、音楽を演奏することと同様に、教えるということ自体のスキルにより成り立っています。
そう、教えることは、教えるスキルを用いることなのです。
スキルであるということは、
・昨日よりもきょうの方が上手に教えられるが、明日はきょうよりもっと上手に教えるようになる= 昨日はきょうよりも教えるのが下手で、きょうは明日よりも教えるのが下手である
・あなたより教えるのが上手な先生もいれば、あなたより教えるのが下手な先生もいる
ことを意味しています。音楽の演奏とまったく同じなのです。
したがって、完璧な先生であろうとしたり、他より「良い」「うまい」「レベルが高い」先生であろうとすることは、本質的にはあまり意味がないことなのです。
であるならば、ある日ある状況において、答えを持ち合わせていないことがあっても、何も恥じる事も焦ることもありません。
そういうときは、自分にとって本当に役立ったことや、感銘を受けた出来事などを、話してあげればそれで十分です。
そのとき扱っている問題と直接関係なくても、また問題解決につながることでなくても、先生であるあなたが、奏者としてあるいは人間として重要性や大切さ、良さを深く実感している考え方、練習方法、経験を分かち合うことは、いつでもできます。
それは必ず、あなたが向き合っている生徒のためにもなるのです。