アメリカのトロンボーン奏者・D.ラインハルトに端を発する金管アンブシュアの働き方に関する研究によると、金管奏者のアンブシュアは働き方として
40%の奏者が
「上唇が主に振動する」
20%の奏者が
「下唇が主に振動する」
40%の奏者が
「上下両唇が振動するがどちらかというと上唇優位」
ということが観察されています。
先日、この中では見ると「下唇が主に振動する」吹き方のアマチュアトロンボーン奏者がレッスンにいらっしゃいました。
この方によると
「中学のときは上唇優位な吹き方で吹いていたが、ベルを上げさせられ下唇優位になり吹きにくくなった」
とのことでした。
そして、
「ブランクがあり再開してからは上唇優位な吹き方に矯正して取り組み、上唇優位な吹き方だと気持ち良いが、下唇優位になりそうになると吹きにくい」
というのがご本人のお話しでした。
しかしながら、レッスンを進めるに連れて話が噛み合わなくなりました。
というのも、上唇優位で吹いている様子が一度も見受けられなかったからです。
時々、「上下両唇を振動させているがどちらかというと上唇優位」の吹き方かな、というときはあるのですが。
そこで3分類法から考えるのを保留して
・浮き気味なマウスピースを唇や皮膚越しに歯や骨にしっかり押し付け安定させる
・アンブシュアモーション(音の上下動に合わせて行われているマウスピースの位置のスライド)を観察して傾向を把握し、吹きやすくなるモーション軌道を実行
ことをしました。
すると、吹きやすくなり音もずいぶん良くなりました。
御本人も晴れ晴れとした表情で、とても良い感じだとのこと。
「上唇優位で吹けている」
と。
・・・しかし、客観的に見るとむしろ下唇優位な吹き方がより作動したように見えるのです。
ちょっと混乱してきました。
それまでより高い音にチャレンジしてみて頂くと、
「高音域に入るときに顎が前に出てきて吹きにくい。いつもそうなる。」
とのこと。
この言葉と身振りは、まさに下唇優位な吹き方を表していました。
さて、これは
『上唇優位な吹き方が合っているのだけど下唇優位な吹き方が発動してしまい吹きにくい』
ことを意味しているのか、それとも
『下唇優位な吹き方が合っているのだけど、その吹き方を実行しきれていない』
ことを意味しているのか。
どちらだろう?
ここで、この方は『下唇優位な吹き方』をできると『上唇優位な吹き方』に感じているようなので、その呼び名を使わず、
上唇優位な吹き方の動作
と
下唇優位な吹き方の動作
を確認していきました。
下唇優位な吹き方は下唇が振動するので、下唇が振動するにはどうする必要がありますか?と尋ねると、
「下唇を張って息を下向きに吐く」
とのこと。
・・・大変興味深いことに、実はこれはまさに真逆の上唇を振動させる動作なのです。
つまり、この方の場合
上唇優位な吹き方の動作
上唇優位な吹き方
=下唇優位と感じ下唇優位と呼ぶ
下唇優位な吹き方の動作
下唇優位な吹き方
=上唇優位と感じ上唇優位と呼ぶ
ということが起きていたのです。
呼び名の逆転・取り違えは、自分に合った奏法を実行していれば、実のところ別に問題ありません。しかし、呼び名が逆転したところから、呼び名が示す、あるいは呼び名から演繹される吹き方を考え実行しようとしていたので、自分に合ってない吹き方をやろうとする動作も混ざり込みそれが悪さするのです。
ここまで説明し互いに理解が進んだところで
①
顎が前に出るのはおそらく下唇優位な吹き方に必要な動作で、御本人は実は下唇優位のときに吹きやすく感じうまくもいくのでそれをわざとやるとどうなるか?
②
下唇の代わりに上唇を歯に張り付け張るのが下唇優位な吹き方だからそうするとどうなるか?
という方向で実験を進めると、そこで全てが噛み合い、2オクターブがなめらかに均質な音質でつながりました。本人の感覚としてもとてもラクとのことでした。
このレッスンは、
“吹き方の自分にとっての良し悪しを、機能性や感覚から正しく判断できていて、自分にとって良い吹き方ができていても、それに与える名称や描写に間違いがあると、その名称や描写から想起・連想・演繹された方法が自分にとって合わなくなる”
という構図の存在に気付かせてくれました。
すごく良い感じで吹けたり、すごくうまくいったことがあるのに、それが再現できなかったり見失ってしまうという悩みは多くの人が抱えているかと思います。
もしかしたらそれは、このように「その時の奏法に与えた名称や描写」が不正確だから検索/再現できないというのが原因の場合が有りそうです。
Basil Kritzer