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今年に入ってから、『腹式呼吸/胸式呼吸テスト』を頻繁に試している。
どうも、管楽器や発声の呼吸の支え方にはやりようが複数あり、人により得意とするものが異なるようだからだ。
日本では胸式呼吸が忌み嫌われがちで人権が剥奪されがちだが(笑)、例えばアメリカの金管の世界だとチェストアップが王道のような位置づけになっており逆に腹式呼吸の話の方が受け入れられにくいところがある。
文化や地域によって腹式/胸式のどちらが推奨されどちらが否定されがちかはちがっていても、『人間にはどちらも可能で、どちらがその人によって機能的か・好ましいかが異なる』というあたりがより真実に近いと思われる。
どちらの方式も、その共通点は「息をただ自然にリラックスして吐くのではなく、息の出て行き方をコントロールしている」点にある。また、「息を吸うときに膨らんだ体の部位を、膨らんだまま保つような力の使い方をする」ところも共通している。
異なる点は、「特に体のどこを積極的に膨らませ、更に膨らませたまま保つか」にある。また、その結果、体のどこで息を吐く力を主に得るかも異なることになる。
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《腹式呼吸》
・膨らませる場所→お腹
・膨らませたまま保つ場所→お腹
・息を吐くときに凹む場所→胸
《胸式呼吸》
・膨らませる場所→胸
・膨らませたまま保つ場所→胸
・息を吐くときに凹む場所→お腹
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このようになっている。
両方試して、どちらのほうがやりやすいか、しっくりくるか、音が良いかを確認するのだ。
人によっては、それぞれの長所が気に入って、場面により使い分けることを選ぶ人もいる。
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さて先日、月1回ペースでレッスンに通って下さっているベテランのアマチュアホルン吹きの方とのレッスンで、『胸式呼吸がしたいが、腹式呼吸になってしまう』という課題に取り組むことになった。
この生徒さんとはすでに何度か腹式/胸式テストをしていて、胸式の方が吹きやすく音も開放的でしっくりくるし全体的に機能的であることを本人が感じていて、この数ヶ月、胸式呼吸を意識して実践されている。
しかし、最初に述べたように、なにぶん日本は腹式呼吸こそが正しいという思い込みが浸透している。この方は、腹式呼吸を正しく・しっかり学習され長年実践されてきた。ただ一つ問題なのは、実は本人にそれが合っていなかったということだ。
長年やり込んだものだからなのか、胸式呼吸を意図してもどうしても息の吸い始めに腹式呼吸の動きが起き、胸があまり動かないというところを気にされていた。
それなりに年齢を重ねられた方でもあるので、肋骨の可動性が下がっているなどして、胸が動きにくくなっているのかもしれない、もしそうなら無理に胸式呼吸をしようとしてもそれは力みにつながるかもしれないと思ったので、『やりたいし、そちらの方が実際結果がよい胸式呼吸をやろうとしても胸が動かず、お腹がすぐ突き出るように動いて腹式呼吸してしまう』という状況に、「胸式呼吸をしましょう」と提案するのは何か筋違いのように感じたので、しばらく考え込んだ。
・・・そこで提案してみたのは、
『腹式呼吸以外の何らかの呼吸を思い切りしてみたら、どんなことが起きるか試してみましょう』
というものだった。
すると!
さっきまで動きづらそうだった胸のあたりがガバっと持ち上がり、引っ掛かりや無理もない様子で見事な胸式呼吸がすぐできたではないか!
これには驚いた。
どうして『腹式呼吸以外』と考えることでそのようなことが起きたのか?
それはどうやら次のようなことであったようだ。
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①本人はすでに胸式呼吸と腹式呼吸の両方のやり方が分かっている。
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②胸式呼吸の方がやりやすく結果も良いので、本人は胸式呼吸がやりたい。
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③楽器を持たなければ、胸式呼吸ができる。
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④しかし、たくさん訓練し慣れているのは腹式呼吸
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⑤「ガバッとたくさん吸おう」と意図したとき、その瞬間頭の中で胸式呼吸のことを考える余裕が生まれず、訓練済みの腹式呼吸が発動する
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⑥そこであらかじめ、その呼吸法=腹式呼吸はやらないことにしてみると、腹式呼吸が発動しなかった。
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⑦代わりに、本人がやりやすく合っているようである方の呼吸法、この場合は胸式呼吸が発動した
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興味深いことに、この一回の成功体験で、ほとんど十分であったようだ。そのあとからはすぐに何度も胸式呼吸ができていた。
癖になっているやり方に対して、新しいやり方を「ぶつける」のではなく、癖になっているやり方を『脇に置いておいて』、その代わりに新しいやり方に『置き換え』ることをしたのが良かったのかもしれない。葛藤がなかったのだ。
あるいは、本人にとってやりにくい方の呼吸法を、本人は本人にとってやりやすい方の呼吸法をおさえつけおさえこみながらやることになっていた。そのやりにくい方の呼吸法を「やらない、やらなくていい」ことにすることが、何か解放的な行いで、本来やりやすかったはずの方の呼吸法が抵抗感なく花開いたということなのかもしれない。
腹式・胸式テストという着想を得て試行しはじめてから、いかに「予断」というものが物事をやりにくくするかということを感じている。
その人の様子を見て、このひとはこういう呼吸法なんじゃないか、こんな無理をしているんじゃないか、という想像や予想が生まれるのだが、ここでテストをせずにその想像や予想を元に進めると、考案する実験内容は基本的にその想像や予想に適合するつもりであるので、効果が曖昧だったり妙に手間がかかったりする。そこで「これは何か自分の見立てが間違っているぞ」と気づいて、もともとの想像や予想を見直して異なる可能性を考え直すのだが、自分がどんな想像や予想をしていたかについては最初の想像や予想の時点では無自覚なこともあるので、ちょっと時間がかかる。
対照的に、何がうまくいって何がうまくいかないかを最初から「テスト」できると、テスト結果をふまえてその先の実験や提案を考案していくことができる。ロスが少ないのだ。
アンブシュアモーション、アンブシュアタイプの研究もそのようなテストのツールとして大変便利なものの一つだが、様々なことをより早期にテストして、そこから分岐して進めていく阿弥陀くじのようなレッスンシステムをもっと構築・拡張していけたら面白いかもしれない。
全ては、事態が改善するかどうか、有益かどうか、有用かどうか、実践的かどうかといった「現実」が判定してくれるので、テストシステムではなく見立てや予測から案を作ってそれの効果を測るというのも根本的には同じではあるが、最初に一生懸命観察し考える手間を省くことの意味は大きいのではないかという気がする。その手間はテスト結果が曖昧なときや、テストの方法が分からないような問題に取り組むときなどに「温存」「集中」できるからだ。
自分のレッスンのやり方の体系的な効率化が、物事のテスト方法の着想・考案・確立という角度からもしかしたら進めていけるのかもしれないな、とふと思うのであった。
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今回は胸式呼吸が合っているけれど無理に腹式呼吸をしていた例のことを書いたが、実はその真逆の例にも最近接したので、それについては明日書きたいと思う。
Basil Kritzer