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ある時、あがり症傾向があり相談にいらした大人の管楽器演奏愛好家の方とお話をしていて、「贖罪としての努力」というものに行き当たった。
これは、わたしも過去に陥り、いまでも完全に拭いきれていないかもしれない心の在り様のことだ。
それはどんなものかというと、「自分の演奏は不完全で質が悪いものだから、改善できないのなら、せめて自らに鞭打って体力精神力の限界まで苦しむようなせ努力だけはしなければならない」というようなものだ。
そして、「そのように自分を痛めつけることで、罪を償おう、許してもらおう」という感覚がそこに続く。
これは、努力は報われるものか否かという話とも、報われるべきか否かという話とも異なるものだ。
贖罪的努力は、努力量においては多大なものになることがあると思うが、その努力は努力する主体の望みや願いを満たすためのものではない。逆に、望みや願いが満たされない、努力によってそれらに届かない叶わないという感覚から出発するものである。
しかし、改善向上したいという自然な意欲、努力したいという純粋な気持ちそもそもある。したがって、努力のエネルギーは持っている。単純に諦めることができない。そのエネルギーに、不完全であり欠点やできないことがある自分というものへの恥、罪悪感のようなものが混ざり、そこに『努力することの意味』を深く掘り下げない根性論的な努力信仰の共同体や環境に接触することで着火するのが贖罪的努力なのかもしれない。
贖罪的努力そのものについては、これ以上解明しようとするとそれはもう心理学や社会学の領域になると思うので、私は現時点では説得力ある論を展開することはできない。
それでも、贖罪的努力で自身を蝕んだ経験がある当事者の主観としてだけ述べると、例えば高校野球の文化において「チームのために頑張ったことで怪我をして野球が続けられなくなった」ことや「連戦連投により負担がかかったことが元でプロで活躍できなかった」ことがついに2020年代に入っても相変わらず美談として語られていることに対して、飲み込まれてしまうような恐怖、こんなことが許されて良いはずがないという反感、そして実のところ「壊れてしまえば許される」という何がしかの安堵・救いすらも同時に感じている。
この救いは、偽りのものにちがいないという確信も同時に持ってはいるが。
では、贖罪的でない努力はどのようなものなのか。贖罪的努力が「自分の目指すところ、望むものに届かない」という感覚が背景にあることをふまえると、
『努力』
=自身の望みを叶えるために必要なことを、望みと異なることにつながる事柄より優先して実行すること
と定義してみることができそうだ。
こう定義しておくと、その望みが叶うかどうかと、努力をすること自体はイコールでなくてよいことにもなる。
努力や頑張りが尊いのではなく、一人の人が、自身の価値観に基づき自分の望みや願いを自覚し定めること。そしてそれを実現しようと実際にこの現実世界に何らかの働きかけをすることが尊いのではないだろうか。
目に見える努力の様子がなくても、努力の前段階における望みや願いを自覚するに至る過程の尊さ。その望みや願いが叶わなくても、実現に向けて何かをすることの尊さ。少なくとも等しく尊いと言えるのかもしれないと思う。
その根底には、この宇宙の歴史の中で過去にも未来にも他にはない、一人一人固有の個体としての自由と自律があるのだと思う。
BasilKritzer