ある日のレッスンより。
座奏時、骨盤が後ろに倒れ身体を幾度もうしろに持っていきながら吹いてる大人のアマチュア金管吹きの方。その原因は、『同じオケの仲間がかがみこんで身体をちぢめて吹いている様子』にあった。
どういうことか?
仲間の様子を、この方は「前のめり」という言葉で形容した。そして『仲間のようにならないように=前のめりにならないように』と考えるに至った。身体を後ろに引くのはそのためだった。
しかし、仲間のひとの姿勢は『かがみこみ』であって『前のめり』ではなかった!
というのも、身体と椅子および床の接触面、つまりお尻・もも裏・足裏が実際のところ座奏時に体重がかかっている場所だが、それを確認したときになれた、足と脚腰でしっかり身体を支えられて演奏も段違いにしやすくなった体勢を『前のめり』と感じられたのだ。
『かがみこみ』を『前のめり』と混同したため身体を後ろに後ろに引いていたのよりは、前に動く感覚になったのは当然だが、そもそも避けたがっていたのはかがみこみであり、前のめり感を怖れる必要がなかったわけだ。
このように、出発点に与えられた言葉にズレがあったまま、論理的に演繹しているのに解決改善のすべがわからなくなることというのは、実は非常によくあることだと思う。
感覚をそのまま感覚的な言葉にすることや、字義通りに考え進めるのは得意な一方で、描写の精度にこだわりがないためにズレや脱線を起こしがち、そもそもの前提の再検討はあまりしないのが日本語文化の一つの特徴なのだろうか。
Basil Kritzer