【人生の選択を本当にまちがえてしまった、と思ったときの話。その1】

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わたしは日本で育ち、高校まで日本の学校で学び、
高校卒業後にドイツの芸術大学に進学してホルン演奏を専攻しました。

しかし、実はドイツに行った最初の日から、心の中には「しまった、自分の選択は誤りだったのではないか・・・」という気持ちが生まれていました。

36歳になった今だからこそ分かる・認識できることですが、そもそもドイツに行くということもだいぶ無理をした行いだったように思います。

1985年、1歳のときにアメリカ人家族の来日とともにわたしは日本に来ました。この頃は、見た目で「外国人」とわかるようなひとの数というのは、日本ではいまよりもっと少なく、いまより遥かに珍しく目立つものでした。

見た目で目立つ。
家の言葉や生活習慣が、家の外のそれとちがう。
また、記憶が曖昧ですが小学校の途中くらいまでは、「我が家はアメリカに変えるかもしれない」という話が時々出ていたような気がします。

そのような背景から、わたしは「みんな=まわりの日本人の友達」と同じにはなれない、いつまでも一緒にはいられない、そんな気持ちを漠然と持っていたように思います。

つながりたい、溶け込みたい。でも、溶け込みきれないし、つながってもいつそれが切れてしまうか分からない。

小学校5年の終わりに、同じ市内で引っ越しをしました。同じ市内ではありますが、学校は転校することになりました。しかし、この5年生のときのクラスが、当時のわたしにとってはとても楽しく、居場所を感じる(今思えば、そのときの担任の先生のおかげです)ものでした。このクラスから離れてしまう、一緒に卒業したり中学校に行ったりできない。このことがとても悲しく、結局いまに至るまでどこか受け止めきれずにいるのだと思います。

もともと社交的な性格ではあるので、転校先の小学校でも、その後進んだ中学校でも友達はすぐできたし、決して孤立するようなことも全くありませんでした。

しかし、「つながりたいのに、つながっていられない、離れ離れになってしまう」という気持ちは、この転校体験で大きく自分の心に刻みつけられたように思います。

その思いへの囚われといいますか、向き合って消化できなかったことが、いま振り返るとドイツへの進学の局面に大きな影響を与えたように思います。

中学校からは中高一貫校で、吹奏楽部に入りました。

学校や部活が楽しいと感じられるようになったのは中学1年の最後の方からだったので、それまでは5年生の転校から2年間、どこかつまらない気持ちで過ごしてもいました。しかし、やがて部活の先輩たちとの時間がとても楽しく、愛おしくなっていきました。

・・・いま振り返れば、ですが、ずっと「この時間が永遠に続けばいいのに」と思っていました。

しかし、「進路」という問題があります。

通っていた中学高校は大学附属だったので、大半の生徒はそのままその大学に進みます。ですが、わたしにとってはその大学で本気で学びたい思えるものが無く、真剣に考えれば考えるほど、音大こそが自分にとって一番意味ある進路だと考えるようになりました。

高校1年くらいまでは、そもそも音大に入れるかどうかも分からないし、「その時」がくるのもまだまだ先に思えたので、まだ学校や部活の仲間たちとともに楽しく、あるいは一生懸命に過ごす時間に幸せに浸っていました。

しかし、当然のこととして、やがて徐々に大学進学のことは現実的になっていきます。このときに、当時は直視できなかった。でも否定しようのない気持ちが心に渦巻くようになりました。それは、「みんなから離れたくない、日本から離れたくない」というとものでした。

当時の私は、この気持ちを認めることも直視することもできずにいました。いま振り返ると、「進路」や「自分の人生でやりたいこと」と、「つながっていたい、みんなと一緒にいたい、日本にいたい」という気持ちとを、どう天秤にかけるのか?どう折り合いをつけるのか?それが全く分からなかったのだと思います。それもあり、当時の私はこの「つながっていたい」という気持ちを否定していました。その気持ちを感じたら、『この辛さをぐっと我慢したら報われるにちがいない』と思うようにしたり、『こんなの意味のない気持ちだ』とないがしろにしたりしていました。孤独感というものへの対処法が全く分かっていませんでした。おそらく、幼少の頃からの背景が大きく影響していたのに、その背景の客観視も非常に難しいことでしたから、孤独感の根っこが放置されたままで、どうしようもなかったのだと思います。

高校2年の夏のコンクールが終わり、中学校から5年間、あるいは高校から2年間苦楽を共にしたいちばんつながりの強かった先輩たちが引退したとき、もはや孤独感は恐怖感のようなレベルになったのを感じたのを、実は覚えています。しかしやはりこのときも、その気持ちの扱い方も、分かち合い方もわからず、わたしはどんどん自分の気持ちに蓋をし、体温を下げて冷たくしていくような感覚を強めていきました。

その、「つながっていたい、みんなと一緒にいたい」という気持ちを無視・否定して物事を考え選択していくことのマズさにハッと気付いたのは、高校卒業後、ドイツの音大受験がその夏にあったので半年弱の「浪人生活」のようなものが始まったときでした。もう通う学校がありませんでしたから、毎日が強烈に寂しく苦しく感じました。そのときに、「しまった、オレは自ら進んでこんな状況を作ってしまった」と愕然としました。

しかし、それでもやせがまんしてしまいました。あるいは、やはりやせがまんすることしか自分に思いつく道が無かったのか。自分が自分の気持ちに嘘ばかりついてきたこと、そしてそのせいでもっと辛い状況を自分にもたらしたことは分かっていたのですが、自分のものの考え方や振る舞い方を変えることはできませんでした。

ですから、夏にドイツの音大を受験して合格したときも、もちろん喜びはありましたが、本当に正直に言えば、「これで、もう本当に日本を離れることになってしまった・・・」という呆然とした気持ちの方が大きかったのです。

そうして、そういう気持ちを誰かに言うこともできず、むしろ自分で受け止めることすら満足にできず、そのまま秋にドイツに単身、引っ越しました。

そして、渡った先でのドイツでも、またしても、あるいはやはりと言うべきか、「しまった、人生の選択を誤った」と愕然としてしまうことになります。 

それについては、次の記事で。
【人生の選択を本当にまちがえてしまった、と思ったときの話。その1】

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