【指導者としての立ち位置】

レッスン活動を仕事としてはじめて、10年以上が過ぎました。

《自分が自分を上達させていくには、一体どうしたらいいのか?》

この問いがわたしの指導者としての立ち位置のスタート地点です。

この言葉は、21歳になる年に、自分自身が、当時音楽大学でホルンを専攻し音楽を学ぶうえで、何をひとに助けてもらう必要があるかをはっきり言語化したものです。
 

わたしは中学生のときから、楽器演奏に関して教わることを吸収することに困難を感じていました。

例えば、お腹に息を入れろと教わるわけですが、「え??入らないじゃん、何を言ってるの??」と引っ掛かってしまい、その教えを信じられず吸収できない。

あるいは、教則本を読んでいても、「正しい姿勢」として掲載されている写真を見て、それを教則本の著者の演奏時の姿勢と比べて、「・・・全然ちがうじゃん・・・」と気になってしまい、一体どちらが本当なのか考え込んで迷ってしまう。

上達できる!と謳う教則本を何度も読み込むが、書いてあることに対し

『あれをやりなさい、これをやりなさい』
→でも、そのアレやコレがなかなかできるようにならない。どうしたらいいんだ?どうやったらできるようになるんだ??

『練習していれば上達できる』
→練習していても、どうもそんなに上達しないなあ・・・。むしろ下手になるときもある。どうしたらいいんだ??

『こんな見た目・フォーム・姿勢でないと上手くならない』
→それができないんだけど・・・やると痛くなったり、吹けなくなったりする。どうしたらいいんだ?

と引っ掛かってしまってばかりです。

なんだか、肝心なことが何も書いていない気がして、何かここには暗号でもあるのかと思って真剣に、飛ばしてしまったページがないか探したり、斜めから読んでみたら秘密のメッセージでもあるんじゃないかと探してしまったりしたくらいです。

つまり、感覚やイメージを言葉にしたものだったり、実は深い考えや根拠が背景に存在しない言葉を、ほどほどに受け流したり、感覚的に受け取って良い具合に自分のものにしたりということが出来なかったのです。

これが何が原因なのか、未だに分かりません。

アメリカ人家庭で1歳から日本で育ったという二言語環境が影響しているのかもしれませんが、たしかなことは分かりません。

そんな調子ですから、今から思えば音大に行っても苦労ばかりだったのは当然なのですが、結局いろんな先生に聞いても、『どうしたら上達するのか?』という問いはうまく伝わらず、「あんな練習やこんな練習」というような、その先生が好む練習法であったり、「吹き方はああでないとダメ、こうでないとダメ」というような、その先生の感じている奏法の要件を説明されるだけでした。

言われたことをやってもやっても、できるようにならなかったり、体を壊したりということが続きました。

それで悩みに悩み、
考え込み続ける日々が続きました。

そうするうちに、わたしは「どんな練習が効き目があるか」「どれぐらい練習すべきか」というようなことではなく、

『自分は自分をどうやったら上達させることができるのか?ひとつひとつの練習を、自分で設計できるようになりたい』

というようなことを考えているのだと理解しました。

そして、そういったことに関心がある先生たちを探し出す旅路が始まったのです。

そのような問いを理解してくれる指導者というのは、音楽の世界では希少です。

しかし、自分が何を求めているかが明確になってからは、その次元で向き合ってくれる人たちを探し出すことができ、そのときから自分で自分を上達させることができるようになっていきました。

その結果、わたしがホルン奏者として成功できたのかと言えば、全くそのようなことはありません。プロ奏者としては、せいぜい二流です。

ですから、わたし自身の達成を以て権威的にわたしの考えの正当性を示すことはできません。あるのは、わたし自身の現在進行形の変化と成長だけです。

なので、わたしの提案したこと、書いている事柄やいくつもの動画で常日頃から公開している実際のレッスン内容を受講者・読者・視聴者がそれぞれ自分なりに取り入れたり使ってみたときの変化や効果だけがわたしのレッスンの価値を測りうる指標だと考えるようにしています。

『相手に、どれくらい役立ち有益であったか。それがわたしのレッスンの意味と価値。』

これが、指導者としてのわたしのスタンスです。

また、近頃あらたに言語化できるようになってきたことがあります。

それは、前述の「どんな練習をしたらいいか」「どれくらい練習すべきか」といった発想は、それを機能させる条件として、『練習=上達』という等式が成立している必要がある、ということです。

わたしのホルン人生の困難は、まさにこれが成立していなかったことにあります。

練習意欲はめちゃくちゃあります。
実際、めちゃくちゃ練習しました。

しかし、それによって上達しなかった。
さらにはそれによって体を壊したり、演奏能力を失ったりした。

普通はそれを、「向いてない」とか「才能がない」あるいは「気合いや根性が足りない」と言って終わらせるのでしょう。でも、わたしはそこで終わらせるのに納得が行きませんでした。

おかしい、おかしい、こんなはずない。

そういう諦めの悪さ、しつこさ、自分の下手さを受け入れられない器の小ささが、《自分が自分を上達させていくには、一体どうしたらいいのか?》という問いを突き詰め続けさせています。

その格闘の副産物をわたしはレッスンや著述活動で、自分以外のひとにも希望があれば共有している、という構図だと言えます。

『練習=上達』の等式は、いまだわたしの中で成立していません。

はやく成立させたくて、ずっともがいています。

でも、自分の歩みは、どういう理由かは分からないですが、その等式が成立しない現実を受け入れつつ、それでも上達を希求する過程にこそ特色があるのかもしれません。

二流で、ダメダメなホルン奏者だけれどまだ上達したいという気持ちに嘘がつけないでいるのが正直なところです。

この歩みによって、わたしのレッスン活動が形作られています。

これが他人の役に立つー。挫折と失望のホルン奏者人生がある一方で、望外に喜び多きレッスン人生があります。

これからも皆様のお役に立てますように。

Basil Kritzer

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【指導者としての立ち位置】」への1件のフィードバック

  1. 先生お疲れ様です。
    毎週画面を通しているので、既に私は親近感さえありますが(笑)

    ブログ拝見しました。
    普通はあまり返信したりしませんが、今回は感謝を込めて返信内容を書いております。

    うちの娘は、去年と比べると全く音が変わっているのをこの頃特に感じます。
    当時、初めて(最初はレッスン場所違いましたね 笑)お伺いした時、レッスン段階の話しの中で、一年で音大生レベルまで行ける。音大受験なら時間がたっぷりあるから大丈夫と仰っていた事を思い出しました。(この時は半信半疑でしたが 笑)

    中・高吹奏楽活動での数々のダメ出しと顧問、上級生からの叱責から泣きながら家に帰って来た姿を思い出します。

    未だにその呪いとも言える恐怖から完全に脱却できていないながらも、先生からの安心感と、これで正しいんだという自信で、親の私から聴いても、あの頃の音とは全く違う音を出しております。
    娘にとってはbasil先生は単なるホルンの先生ではなく、心身ともに成長させて頂いている師匠であります。

    上手い人の音はCDや音源が有れば聴けます。
    テクニックならばそれこそ多数の先生からその人独自の感覚等ご教示頂けるでしょう。
    ですが、苦しみからの解放というのはコンプレックスや精神的な部分を解いていかないとなりません。先生と娘のレッスンを聞いていて、これは、指導や方向性ではなく、本人との共存や理解、時に励まし、認めている事が必要なんだなと痛感しました。その中にさりげなく入っている大事な音楽要素‥素晴らしいです。
    これまで頑張れとか、対処方法、私のレースでのエキスパートとしての心がけしか言えなかった自分が恥ずかしく思いました。

    きっとbasil先生のように、上を目指しながら成長していらっしゃる先生が娘にはJUST FITしたのでしょう👍
    そんな娘ももうすぐ、クラシックコンクールや他のソロコンクールが始まります。

    これからもよろしくお願いします。そして先生の御活動、全て応援しております!!

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