D.クレベンジャーに学んだ人生についての2つの教訓

シカゴ在住の心療内科医のジェラルド・スタイン氏のブログ

「Dr.Gerald Stein – Blogging About Psychotherapy from Chicago」

において、「Two Life Lessons From Dale Clevenger/D.クレベンジャーに学んだ人生についての2つの教訓」

という記事があります。スタイン氏の許可を得て、ここに翻訳します。

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シカゴ交響楽団首席ホルン奏者D.クレベンジャーに学んだ人生についての2つの教訓
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デール・クレベンジャー氏と時間を過ごすために遠い距離をわざわざ通ってくるひとたちもいるくらいだが、幸いにしてわたしは近くに住んでいるのでその必要がない。

何千マイルもの距離を彼に会うために移動するひとたちというのは、この世界的に有名なシカゴ交響楽団のソロホルン奏者の指導を受けるためにやってくる音楽家たちである。

その大部分は、ホルンというとんでもなく難しい楽器を演奏する技術を向上することを望んでいる。音楽性を高め、パフォーマンスの芸術性を向上させようと望んでいるのだ。

わたし自身はホルンを演奏していないが、シカゴ交響楽団の依頼でデール・クレベンジャー氏についての証言録を録音するなかでわたしも彼の教えを受けることになった。音楽についてではなく、人生についての教えだ。ものごとの始まりと終わりについての教えだ。どんな分野でもどのようにキャリアというものが始まり、そして終わるかについてだ。

その始まりは、オーディションにまつわる物語である。繰り返される落選に惑わされずに一貫して前進する物語である。

もしあなたが音楽家であるとしたら、オーディションというものが裸で舞台に立たされているように思えるくらいタフなものに感じることもあろう。最高のレベルで演奏をできるかどうかを、少数の聴衆によって聴かれ試されるのだ。

もしあなたが音楽家ではなかったとしても、それに近いことを体験したことはあるのではないだろうか。学校での口答試験、博士論文の面接、スピーチをするとき、などなど。もしくは就職面接や誰かをデートに誘うということでも同じような体験をしているかもしれない。

クレベンジャー氏は、シカゴ交響楽団にやってくる以前にすでに大きな成功をおさめていた。カンザス・シティフィル、ニュヨークラジオオーケストラ、そしてレオポルト・ストコフスキー(ディズニーがファンタジアの製作のために捕まえたのも彼である)が指揮するアメリカ・シンフォニーで演奏していた。ピッツバーグ交響楽団とはヨーロッパ演奏旅行を行い、バーンスタインの下ではニューヨーク・フィルでショスタコーヴィチの交響曲第7番を録音した。

アメリカン・シンフォニーの団員であった22歳のころ、大きなチャンスがやってきた。世界的に有名なあのベルリン・フィルに空席ができたのだ。このオーケストラは、彼がそれまでにフルタイムで演奏したいかなる団体よりもレベルが数段高い。

ベルリンフィルは演奏旅行でそのときニューヨークに来ており、カーネギーホールで演奏していた。クレベンジャー氏はその際にオーディションを受けたが、オーディション当日にステージに上がると、待ち受けていたのは少数の審査員ではなく、オーケストラ全員と伝説の音楽監督ヘルベルト・フォンカラヤンであった。

クレベンジャー「わたしは、20分ほど演奏した。それはオーディションとしては非常に長い時間である」

ジェラルド・スタイン「脅迫感を感じやすいひとにとっては、かなり威嚇的といえる状況であった」

クレベンジャー「それこそが鍵なのだ。わたしは、わたしにできることを彼らに示したかった。だから、脅迫や威嚇というようなものをわたしはそれほど気にしなかった」

オーディションが終わると、カラヤンは若かったこの演奏家に「とても素晴らしい演奏であったが、ベルリンフィルのホルンセクションの『音』にマッチしていない」と告げた。しかし「君はきっといつの日か素晴らしいポジションを得るだろう」とも述べた。

実際、その通りとなった。1966年の1月、クレベンジャーはシカゴ交響楽団の首席ホルン奏者になるための競争を勝ち抜いた。しかし、それまでに彼はニューオーリンズ、ダラス、ニューヨークフィル、ピッツバーグ、メトロポリタン歌劇場、さらに1965年に最初にチャレンジしたシカゴ交響楽団といったオーディションで落選を続ける経験要したのである。

わたしは彼に、そのような敗北とどのように向き合うものなのかを彼に尋ねた。すると彼は、48回目のオーディションにしてはじめてプロの楽団のオーディションを勝ち取りボストン交響楽団の団員となったあるホルン奏者を引き合いに出して話してくれた。

クレベンジャー「一体どうすれば、(47回もオーディションに落選し続けて)まだ粘れるのだろうか?わたしもそうしただろうか?わからないが、おそらくできなかっただろう。大きな成功を勝ち取るまでに、5〜15回のオーディションを要するひとはたくさんいる。わたしの場合は9回か10回ほどだった。そのことはわたしの自我に影響しなかった。ただチャレンジし続ける以外にないだろう。俳優だって、オーディションを受けて役をもらえずに終わるという経験に慣れることなく俳優であることなんてできない。その状況からも何かポジティヴなことを見つけなければいけないだろう。」

向上を続けるための練習が必要なのは言うまでもない。

長い会話のなかで、迫るオーケストラからの退団についても彼に尋ねた。すると、彼は団員たちに向けて別れの手紙を書いたと語ってくれた。ここに、二つ目の教訓がある。感謝と、さよならを言うことについてである。

これ以上、優雅なステージの去り方をわたしはほかに知らない。彼は手紙で、マーラー交響曲第8番においてゲーテの詩から借りた歌詞の一節を引用しているのだが、偉大なる作曲家の作品を音に再現することに捧げられた人生を表す表現として最もよいものかもしれない。

別れの言葉 2013年2月12日

シカゴ交響楽団の親愛なる同僚・友人たちへ。

わたしの人生で最も幸福に満ちた日のひとつは、わたしがこの由緒正しい偉大なオーケストラでホルンを演奏することになった日だ。

団員のわたしたちみんなが、この気持ちが分かるだろう。マーラー交響曲第8番に、 “Das Unbeschreibliche, hier ist’s getan” (“わたしたちは、言葉では言い表せないことを成し遂げたのだ”)

わたしは48年もまさにそれができて大変幸運である。

信じられないくらいほろ苦さ、喜び、そして心の痛みとともに、わたしは来る6月にこの素晴らしいシカゴ交響楽団から引退することをみなさんに申し上げる。

わたしはここで演奏できて、非常に幸運であり感謝の念が尽きない。このオーケストラ中のオーケストラで。

この素晴らしい仕事に、わたしはこれを以って区切りをつけるが、音楽から退くわけではない。インディア大学から要請があり、2013年8月1日から教授の鞭をとることになった。

みなさんは本当に、この惑星において最も素晴らしい音楽家のひとりである。そんなみなさんと、何千ものコンサートで共に音楽を作り、ステージを共有する光栄にあずかれたことは、わたしが墓にまで入っても味わいたい素敵な思い出である。

わがシカゴ交響楽団を「ベスト中のベスト」で在らせ続けるために、みなさんにはぜひとも全力を尽くしていただきたいと切に願う。

素晴らしい年月に心より感謝を込めて

デールより

わたしたち聴き手にとっても素晴らしい年月であった。あなたにこそ、ありがとうデール。そして、素晴らしい教訓をありがとう。

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