最近またはっきり認識し始めた、「楽器を構え、音を出そうとする」過程でやってしまう「脊柱を固定し硬くする」癖。きょうはホルンの練習の中で、「それなしでやる」ことをたくさん試してみた。
私のアレクサンダーテクニークの先生のひとりである、ジェレミー・チャンス先生に先月レッスンを受けてマウスピースをバズィングをしようとしたときに、ズバッと指摘されたのが再認識のきっかけ。
指摘されたそのときは「そんなこともあるのかな」程度の印象しかなかったが、一ヶ月弱の時間が経過する中で、ますます大事な意味を帯びてきた。
その「楽器を構え音を出そうとするときに脊柱を固め硬くする癖(反応)」はおそらく「音を出せているときに感じられる『感覚』を、音を出す前から作り出し感じておこうとする心理」から来ているとのこと。
指摘されて一ヶ月弱経ったきょう、その実際がよく分かった。
ホルンで音を鳴らすとき、日常より大きく強い呼吸活動がある。そのとき、高まった呼吸活動に対応して脊柱安定化の力も強く働く。すると「立っている」のも「座っている」のも日常とは異なる感覚がある。仕事量がちがうので当然。
この感覚を吹く前から作り出そうとしてさまうのだ。
だがもちろんうまくいかない。脊柱安定化の仕事増は、高まった呼吸活動に対応してのもの。意識ではできっこない本能的姿勢調節メカニズムの領域。なのに、吹く前にその状態を再現しようとしてしまうわけだ。
すると、たとえ感覚を再現できているつもりでも、実際に使われている筋肉は種類も量もタイミングも極めて不適切だろう。だから硬くなるのだ。
だから「それなしで」やってみると 随分ラクで効率がよく、「準備がいらない」「反応が早い」感じがした。よい手応え。
それだけ良いのに、でも繰り返し「硬め癖」をやってしまうことにもまた気付かされる。いったいなぜ!?
すぐにその心理的背景も見えて来た。
そもそも「音を出す時の必要なことを、出す前からやってしまう」のは、「音を外したくない」心理からだ。自分でいつも音を外す事が「悪くない」ということを書いているのだが(参照:『違うと異なるのちがい』)内心強く「外してはいけない」と思っている。だから硬くなる。
観察していると「前もって感覚を作っておこう=外さないようにしよう」として身体を緊張させているのは、主に二つのタイミングで起きる。
1:「次の音外したくない」「次の音、難しい」「次の音、外したら自分は下手くそだ…. 的な、『過剰準備型』
2:「あ、外してしまった!」「外すなんて、最悪」….的な『自己懲罰型』
まあどっちも、自己不信、自己否定、自己査定の類いなんです、結局。
どうしてもこのように、自分の心理的構造や傾向に向き合わざるを得ない。
しかし、アレクサンダー・テクニークが便利なのは、深く厄介な心理構造からくる現象でも、その「身体面」というか「運動面」に有効に働きかけることができること。
心理的精神的な動きが原因で起きている身体的に望ましくない運動に変化をもたらすことができるので、心理面に気付くことができ、その悪影響を確実に軽減し始めることができるのだ。
このようにして、自分の望み(例:もっとラクに効率的に音を出したい)と、実際にやってしまうこと(例:自己懲罰的な心の動きが原因で身体を硬くし、不効率でしんどいやり方になってしまう)ことの齟齬に「気付く」こと。「意識化」できること。これは貴重な一歩だ。
なぜなら、「望み」も、それにブレーキをかける「癖」も、どちらも意識化されているので、意識的に「選択」することができるのだ。
もちろん「癖」は意識化されたあとでも、「望み」を圧倒してしまい、「選択」がうまくいかないことはたくさんある。
しかし、「選択肢」が持てるようになれば、少なくとも時々は「選択」ができる。ほんの一度でも、「癖と異なる選択=望みの選択」ができれば、それは脳内においては決定的な意味を持つ。
いままで「癖」の回路しか無かったのが、まだまだわずかで弱くとも「新しい回路」が生まれたことを意味するからだ。そのときから、たとえ10回に1回でも「望みを選択」できれば、そのたびにこの新たな回路は強くなり、逆に「癖」の回路はだんだんと選択されなくなっていく。
こうして地道に、しかし確実にパターンは変わって行く。
すると、ときには一挙にブレイクスルーがやってくることもあるし、ときにはいつの間にかすっかり変わっていた、というようなこともあるが、いずれにせよ「望み」に確かに近づいて行ける。これが希望となり、さらにやる気や楽しみをもたらしてくれるのだ。
なので、どれだけ自分のヘタクソさ加減に凹む日があっても、深刻なダメージにはならなくなっていき。楽器演奏に占める「楽しみ」「喜び」の度合いが増して行く。やっぱりこうでなくちゃ。