自己嫌悪に基づく自己改善努力の限界

ほんっと、自己否定ってやる気や調子の天敵だと思う。

いやもちろん、自己否定は一時的には強烈なエネルギーをもたらしてくれる。変わりたい。変わらなきゃ。こんなんじゃダメだ。このパワーは強い。

「一時的」の意味は「永続的ではない」ということ。「一時」は、1分かもしれないし、10年に及ぶことだっていくらでもある。

自己否定に端を発する「努力」はとにかく苦しい。自己嫌悪とも言える。これは「我慢し我慢して達成する」ようなパターン。達成感はある。でも、我慢と苦しみからの「解放感」でもあるので、「またやろう」という気持ちは消耗していく。

本質的に楽器が好きで、うまくなりたくて、練習することに興味があると、この「自己嫌悪→自己改善のため努力→我慢→我慢→達成→解放」方式はせっかくの興味や好きな気持ちが疲弊するという、困った副作用をもたらす。

こんなことを偉そうにつぶやいている私だが、なぜ分かるか?日常的にこのパターンに嵌っては抜け出し嵌っては抜け出しを繰り返しているからだ。抜け出す度に、少しパターンの全体像が見える。そしてまた嵌る。トホホ。

  何か発見や緊張の解消がある
→ 楽しい。嬉しい。自分の能力を感じる。
→ いつの間にかその新鮮さが無くなる
→ 不安や自己否定が忍び込む
→ 緊張してくる
→ 自己否定的な思考とその影響力に気付く
→ 発見と緊張の解消がある
→ 以下繰り返し。

このパターンをもう何百回とやっている。

自己否定や自己嫌悪は、完全に習慣である。習慣なので、巧妙に偽装した形で自分を捉える。意識では「楽しくやっているつもり」「向上心でやっているつもり」なのだ。でも、どこか体が硬い。どこか気が重い。楽器を手に取ると、なんだかぎこちなく「進歩が無い」感じがする。気になる癖が存在感を増す。

そうして何だかうまくいかなくなる。心がモヤモヤしてくる。不機嫌になってくる。これらはいずれも、「無理している」サイン。「自己嫌悪に基づく自己改善努力」が始まっている兆候なのだ。

ここまで分かっているにも関わらず、毎回、巧妙に偽装して忍び込んで来る「自己嫌悪に基づく自己改善」思考パターンを見過ごしてしまう。硬く苦しくなっている自分を「ん?どうなってんだ?」と立ち止まって観察したときに初めて気付く。「あ!また自己否定してる!」と。

結局根本には「下手な自分は受け入れてもらえない」とか「下手な自分は信用してもらえない」とか、人間が持つ強い欲求として知られる「社会的欲求(所属欲求・愛情欲求)」(マズローの欲求階層説として知られる)ものと結びついた不安・不満があるわけだ。こういった欲求は生理学的基盤を持つ。

そういう満たされない欲求を示唆する不安や自己否定は、ほとんどの場合「現在」には根ざしておらず「過去」の習慣として残っている。現実には満たされているにも関わらず、「満たされないから満たそう」という衝動や行動・思考パターンだけは残るわけだ。

その習慣的パターンは、とっても強力だ。だから嵌るのは仕方が無い。その度に「気付いて→やめる(抜け出す)」ことの積み重ねで少しづつ、でも確実に変わって来る(ときには一つの大きなきっかけで一気に変わる事もあるだろうが)。嵌ったところから抜け出す度に、間違いなく前身している。

それならば繰り返し嵌ってしまうことすら、歓迎しても良いのだ、きっと。なぜなら、どうせまた嵌るし、同時に、抜け出せることもどこかで分かっているから。抜け出せたときの解放感や楽さ。そこにただ存在している自然な自信。これを感じ取れる。

でもその一歩から受け取るものは莫大だ。実に多くを手放し、実に多くを理解し、実に多くの恩恵がある。自分がレッスンをするとき、ものすごく力になっている。

「自己嫌悪に基づく自己改善努力」を見直す怖さはどこにあるのか?たぶん「そんなことをしてしまったら、自分は練習しなくなっちゃう」「そんあことをしたら、自分はいい加減になって色々ダメになっちゃう」という恐怖心だ。でも、これこそが「自己嫌悪」と結びついているのが分かるだろうか?

癖だとか習慣だとかって、だいたい無限ループが始まる。実はもはや「根拠」がないからだ。分析していくと、妙に自己完結していたり、なんともモヤモヤして説明が付かなかったり。

いや?おもしろいね。

とまあ、1週間ほど嵌っていたのから抜け出したきょう、つぶやいてみました。

*マズローに関してはこちら。 いろいろと問題点のある説ではあるけれど、現実のある一面を理解することを助けてくれるのは間違いないと思う

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