エッセン芸大に入学して間もなく、自分でも感じていた奏法?能力的限界をズバッと指摘され、乗り越えるためにアンブシュア(管楽器奏者の唇のセッティング?フォーム)を変え、全く音が鳴らないところからやり直した。
アンブシュアを変えてやり直すことにしたこと、それによって進む方向性に迷いはなかったが、なにぶんいったん全く音が出せないところに戻ったのは精神的に堪えた。
冷や汗と脂汗が流れ、体が火照り、血の気が引くような焦りと恐怖を感じたのを覚えている。
いま振り返っていちばんキツかったのは、「周りの見る目」だったのが分かる。
音大生なのに楽器を演奏する能力が初心者のようになってしまい、聴かれるのが苦痛に感じた。
アンブシュアを変える前と後とで、周りの自分への接し方が変わったように感じた。「あーこいつもうダメだな、潰れたな」「あーあ、吹けなくなっちゃった」と思われているような、強烈で切実な感覚。本当に心身が萎縮した。
いま思えば、それは半分本当、半分自分の投影だったが。
怖くて、情けなくて、隠れたくて。身体がどんどん閉じこもる。それに抗う。そうやってガチガチになる。すると上達ができなくなっていく。
アンブシュアを変えて、限界を乗り越えるはずが、演奏能力が初心者レベルに戻っただけで一向に前に進めない。失った、という気持ちばかりが募った。
失ったばかりか、身体はガチガチ。心はズタズタ。自信はボロボロ。強烈な十代の終わりと二十代の初めだった。
上達するには? 正しい奏法は? 身体の緊張はどうしたら? これへの答えがアレクサンダーテクニークだったわけだが、この苦しい時期に見出したひとつだけ確かなことがある。
それは、誰にどれだけ酷いことを言われようが思われようが、自分は「楽器を吹きたい」ということ。
どこにも辿り着けなくても、何にも得られなくても、どれだけ負け犬であろうとも、自分は楽器を吹く。練習する。
この揺るぎない確信というか軸を見つけた。ある種無条件にあるもの。煎じ詰めれば私はこれに救われ、これに気付いたときから前進が始まった。
いま、音楽をするたくさんの人とレッスンをするとても幸運な仕事をしている。その中で全員がこの揺るぎない何かを持っているのに気付かされ、驚く。
アレクサンダーテクニークのレッスンではいつも、この揺るぎないものが現れる。私はただそれを目撃しているような感じだ。私もレッスンを受けている生徒さんも「目撃」する。それで十分なのだ。