あがり症、という問題に関して、相変わらず考え続けています。
わたしのアレクサンダーテクニークの先生のキャシー・マデンさんはレッスンで、生徒さんが
「人前に出ると緊張する(nervous)….」
と言うと、
「緊張なんていうものを、わたしは知らないわ」
と返すことがあります。
それは生徒さんが、「緊張」と呼んでいるものが
・ドキドキ
・ソワソワ
・地に足が着かない感じ
・震え
・恐怖感
である場合に思います。
【落ち着こうとするの下策?】
キャシー先生は、そのいずれをも
「正しく、健全で、望ましい反応」
であるとします。
それらを、パフォーマンスに必要なエネルギーであるとしています。
そして、それらを落ち着け、抑え、コントロールしようとすることに、わたしの目からするととても敏感に反応し、生徒が自らを落ち着けようとすることの代わりに、パフォーマンス(演奏であれ歌唱であれ演技であれスピーチであれ)を「する」ことにすぐさま促します。
【身体の硬直】
あがり症を訴える生徒さんが感じる「緊張」にはもうひとつ、「身体の硬直」があります。
わたし自身も、本番でこれを感じることがありますが、硬直感にも3種類あるように現時点では思っています。
ひとつは、「間違ったアクションをしているとき、または、プランが欠落しているとき」です。
もうひとつは、「筋肉の張りがいつもより高まっているとき」です。
三つ目が、「いつもり知覚が鋭くなっているとき」です。
二つ目と三つ目は、いずれも良いことです。
筋肉にいつもより力がみなぎっていることが、本番だからこそあります。練習以上に良い演奏をする可能性が高まっています。また、普段実は硬直しているところに、本番の拡大し高まった意識のときに初めて気付くこともあります。本番を通じて、よりよい奏法の可能性に具体的に気付けます。
しかし、ひとつめこそが あがり症の本質 なのかもしれません。
異常なバテ、テクニックの極度な機能不全、重度のネガティブ思考、どうにもならない無力感・虚脱感。
これらが、わたしがいつも怖れ、(言葉は不適切でしょうけれど)トラウマに感じている状態です。それが起きるのが、「間違ったアクションをしているとき、または、プランが欠落しているとき」なのではないか。そう考え始めています。
【よくある悩み】
あがり症を訴えるひとの話を聞くと(そしてわたし自身の長年に亘りかついまだに出ることがあるあがり症の経験も鑑みると)、
「練習でできたことが、本番ではできなくなった」
「震えてしまうんです」
「人の目や評価が怖い」
というお話に触れることが多いです。
「練習でできたことが、本番ではできなくなった」
この表現をもう少し考察すると、「練習通りにただ演奏しよう」というプランで本番に臨んだ可能性が見えてきます。
本番は、練習通りにやる場所ではありません。練習でできなかったところが突然うまくいってそれ以降できるようになったり、一度も失敗しなかったところで思わぬミスをすることもある。そういう「予測不能」が前提となる場です。
だからこそ、本番は面白いし、意味があります。きょう、いま、ここに、この機会にしか集まらない一回限りの聴衆と演奏者の出会いがある。
そういう状況に「いつも通り」臨もうとするのは、状況の性質にそぐいません。
ここに、「一回限りの特別そして素敵な状況」である「本番」に対応できない理由があるように思われます。
本番というその特別な状況に「合致したプラン」が必要なのです。
「震えてしまうんです」
震えてしまうんです、という訴えには興味深いことに、震えたことで具体的に何がどんな影響を受けてどのような失敗やミスにつながったか、という「話の続き」が滅多にありません。
とにかく、「震えてしまう」と。そこには「震えがなければ練習通りに演奏できるはず」という推測が隠れていますが、実際には震えてもうまくいくこともあれば、震えなくても全然うまくいかないこともあります。
震えの有無と、演奏の出来やテクニックの機能には、あまり関係がありません。
しかし、「震え」に対してショックやパニックを起こし、演奏のためのプランを忘れたり、震えを抑えることが演奏することに取って代わられたりしてしまう傾向があるようです。
また、震えるから「練習と同じこと」ができない、という思考も混ざり込んでいます。練習と「同じ」にやろうとすること自体が、本番で失敗する原因となりやすいことは先に述べた通りです。
「他人の目や評価が怖い」
これは、あがり症に向き合い続けているわたしにとって、現在でもあがり症を引き起こす「最後かつ最大」の理由になりつつあります。
「演奏する」というアクションと、「評価を得る」ことや、ひとに「良く思ってもらう」ことは全く結びつきません。
演奏は、芸術を生み出す行為です。その行為のなかに、ひとからの評価や他人が自分という「ひと」に対して持つ印象を操作することは入りません。
ひとからの評価やひとの印象をコントロールすることは、演奏中にやっても場違いであり、演奏の邪魔になります。
【プランの重要性】
こうして見ていけば、あがり症という問題は、
演奏するためのプランが
・欠けている、
・使われていない
・誤って作られている
のいずれかが理由である可能性が高い
ということが見えてきます。
その必然的な結果が演奏者にとっての「あがり症」という問題であり、その問題の克服には、「あがり症の各症状を除去する」というアプローチは適切でないかもしれない、そうわたしは考えるのです。
代わりに、
演奏するために
・必要かつ適切なプランを作り
・それを演奏のそのときに使う
ことこそが、あがり症を乗り越える方法なのではないかと思います。
それにより「あがり症の除去」が起きるのではなく、「自分のベストを尽くし、そのときにできる最善(練習通りではなく)の演奏を行う」という能動的なアクションができたそのときに「あがり症を乗り越えた」と言えるのではないでしょうか。
つまり、あがり症を乗り越えるということは、完璧な演奏ができるわけでもなく、練習よりミスが少ないという意味でもなく、練習通りにできるということでもないのです。
演奏という行為をやり切ってさえいればそれでOKなのです。
【プランのリハーサル】
練習通りに演奏しよう、という発想をわたしはここまで否定的に扱っていますが、ある種のニアミスなのだと思います。
確かに、ある部分では、「本番でやることを、練習のときに繰り返しリハーサルする」のは実際その通りだからです。
しかし、それは演奏の出来や、身体の感覚、気持ちの状態といった「結果」の部分ではありません。音楽という形で生み出したいものを生み出すためのプランを遂行することをリハーサルするのです。
それはつまり、
・演奏行為のいろいろな側面を意識化して
・意識化してあることの中から望みのものを「選択」し
・選択したものを遂行する
ということです。
【重要な要素をカバーするしよう】
あがり症を引き起こす、プランの欠如や間違いや不実行は、演奏行為を成立させる重要な要素を意識的に網羅し切っていないから起きてしまう面もあるように思います。
その要素とは
・自分との関係
・聴衆との関係
・空間との関係
・作品との関係
の4つです。
自分との関係には、「自分自身をどう使うか」というアレクサンダーテクニークから導き出された技術と、演奏技術が両方含まれます。
聴衆との関係や空間との関係は、パフォーマンスのスキルです。また空間との関係は、聴き方のスキルも含まれてきます。
作品との関係は、いわゆる音楽性や解釈、という部分です。
ここに関してさらに詳しくはこちらをご覧下さい。
→あがり症を克服するためのトータルプラン
【プランを作ることも練習に含まれている】
少し話が戻りますが、わたしたちが楽器や歌の練習と呼んでいることの中には、演奏のためのプランを
・作ること
・試すこと
・選ぶこと
・リハーサルすること
全部が含まれています。しかし、その区別ができていないことも、ひとによっては本番でのプランが
・機能しない
・存在しない
・使いそびれる
うちのどれかが起きてしまい、結果的にあがり症が引き起こされる面もあると思います。
プランを作ること
音楽という形で生み出したいものを生み出すためのプランを作る。
それには、「自分の使い方」(アレクサンダーテクニークのレッスンで教わることができる)も、演奏技術(本来は、楽器や歌のレッスンで教わることができるが、アレクサンダーテクニークのレッスンからも学べる場合がある)もあれば、聴衆との関係、空間との関係、そして作品や音楽そのもののこと(これこそ、音楽の師匠から多くを教わる)全てが含まれています。
プランを作るときには、
・自分がいままでどんなやり方(プラン)を用いていたかを観察する
・生み出したい音楽を生み出すためには、どんなプランがより助けになるかを分析する
をやることになるでしょう。
プランを試すこと
観察と分析を通じて作ってみた新たなプランを、実験してみるのです。
実験結果こそが、新しいプランが、自分を前進(生み出したいものを生み出す力になっている)させているかどうか教えてくれます。
ただし、ここで完璧主義的な発想を用いると、あらゆる前進が、「完璧じゃないから価値がない」という判断を下されてしまい、前進が止まります。
完璧主義は、前進を阻む怠慢なのです(by ジュリア・キャメロン)
完璧主義、根性論、苦痛こそ美徳。そういったものは全て、芸術を損ね、あなたの成長を妨害します。
プランを選ぶこと
プランを作り、実験いているうちに必ず、ある程度信頼性があったり、ベターなプランが確立されてくるでしょう。
これは、
・自分との関係
・聴衆との関係
・空間との関係
・作品との関係
のどれにおいても同じであり、つまりは音楽家としての様々なスキル(技術)が高まっていくことと同義なのです。
プランをリハーサルすること
前段までにおいて信頼性があり、やりたいことをやる力となるプランを選びました。
それを演奏する特定の曲やプログラム、演奏形態などの文脈において「使う」こともまた練習する必要があります。これこそがいわゆる、リハーサルです。
通し練習はそれの分かりやすい例です。舞台リハーサルもそうですね。
【適切な準備】
以上、「練習」という一語にもこのように4つの異なる作業が入っていることが分かります。いま、自分はどれをやっているのか。そして、どれをやる必要があるのか。そこに自覚的になれば、適切な準備ができます。
適切な準備ができると、あがり症に呑まれることは無くなるはずです。それはつまり、全くあがらずに臨める演奏会もあれば、多少あがってしまう演奏会もある、そういう「ムラ」はこれから先もあるであろうことを同時に意味しています。
完璧な準備をいつも必ずできる、とは限らないからです。しかい、そのときの条件下においての「ベスト」を尽くすことはできます。ベストを尽くしていたなら、たとえ失敗しても、たとえあがり症に呑まれたとしても、それでOKなのです。
【あがり症を乗り越える 1Dayセミナー】
9月23日に新宿で、「あがり症を乗り越える 1Dayセミナー」を行います。 12人限定の参加者で、1日かけてひとりひとりのケースを大切に扱いながら、あがり症を乗り越えるための「プラン」を自分のために明確にしていきましょう。
定員まであと二人です。
申込はどうぞおはやめに。
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