昔から、長時間練習や根性練習に感じていた大きな違和感。その正体の一つが、ふと見えた気がした。
それは、「時間」という、命そのものとも言えるほど貴重なものを、安易に突っ込むことへの違和感だったかもしれない。
犠牲は尊い。犠牲なしに、大きな意味あることは得られないとも思う。
だからこそなおさら、何に自分の時間を捧げるのかを、本人自身が本気で選べるようにすること。それこそが、教育の果たすべき 最も大事なことのはずだったのではないか。
「長時間やること=正義」とする精神性には、時間という二度と戻らないものを“人に差し出させる”ことへの責任感が、あまりにも薄いように感じる。
「命の使い方」を他者にとやかく指図しない、自分の中から選べるようになる教育。それが核心的に重要なのではないか?
これは今初めて、言葉に整理できた。