【国語問題としての奏法問題】


例えばレッスンで

わたし
『肩が動かないですね。動かさないようにしているのか、なんらかの理由で動かないのか分かりませんが動かしてみましょう』

相手
『肩に力が入っているということですか?』

わたし
『いえ、肩が何故か動いていないということです』

相手
『それは力んでいるからですか?』

わたし
『わかりません。とりあえず動かしてみるとどうなるでしょう』

相手
『脱力するということですか?』

わたし
『いえ、動かしてみようということです』

相手
『どう動かせばいいかわかりません』

わたし
『とりあえず動かしてみて、動かしてみるとどうなるか試してみましょう』


演奏改善!


・ 

よくある展開です。

肩が動いていない。
肩を動かしてみよう。

こういう単純で物理的な次元の話が、定義や観測方法が曖昧な「力み」や「脱力」の話に変換されるという流れ。

奏法問題の多くは国語問題ではないか? と数年前から考えるようになったのですが、これもその一例かもしれない。

もちろん、言葉の受け取り方や意味づけ方や選び方にはひとりひとりの内的で固有な過程があるでしょうが、

◎言葉のそのままの意味を用いない
◎言いたいことを直接表す言葉を選ばない

という偏りあるいは文化が音楽のレッスン、ひいては教育、もしかしたら日本社会にはあるのかもしれません。

技術の習得や伝授、教育においては

◎言いたいことをそのまま表す言葉を探し、用いる  

◎言われた言葉のそのままの意味で受け取る  

ことができるのが建設的ではなかろうか、とまだぼんやりですが考えています。

うまく言えないけれど。

BasilKritzer

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