【プロオケに入れなかった自分】

今年、『自分を否定しない技術』(仮題、講談社)の出版を予定しています。
それの制作に関連して書いた文章です。

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【わたしの現在進行形の自己否定】
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自分を否定しない技術、と銘打った本であるわけですが、

わたしが現在に続くまで向き合っているわかりやすい自己否定は、

『プロのオーケストラで演奏する音楽家になれていない自分』

です。

いまでも、なりたい気持ちがあります。強い憧れと、大きな尊敬の気持ちがオーケストラで演奏する奏者たちに対してあります。

2015年頃からでしょうか、欧米のプロオーケストラの奏者たち、YouTubeやポッドキャストなどで自らのキャリアや考え方について話してくれることがとても多くなりました。

わたしは演奏を生業とすることから、レッスン活動を仕事にしていくことに意識的に集中することに切り替えるという選択をしてから、もう10年が経とうとしています。

それでも、オーケストラ奏者たちの語る話を聞くのが堪らなく楽しく、同時にいつも『なんで自分はこうなれなかったんだろう?』と悶々とするということをしょっちゅうやっています(苦笑)

また、日本のオーケストラでホルン奏者の募集があるのを見ると、頭の中で2割くらいの本気度で、『応募してみるか?どうする?受かったらどんな日々が待ってるんだろう』と想像し始めてしまうのです。

すぐ、我に返って冷静になりますが。

昔、野球をやっていたおじさんがドラフトのシーズンになるとそわそわしてしまうようなものでしょうか(笑い)

一方、いまの自分はどんなことができているでしょうか?

◎国公立大学の非常勤講師
◎いろんな大学で講座を受け持っている
◎著書が10冊にのぼる
◎たくさんの生徒さんと、たくさんレッスンできている
◎全国あちこちに呼んでもらえる
◎多くのひとの助けとなることができ、たくさんの笑顔や感謝をもらえている
◎演奏家の多くより、収入面で良い

肩書、収入、日々の経験・・・

どれも少年時代、大学時代、10年前の自分だったらもう夢のようなものです。

いまの自分の在りように、大きな不満はなく、
夢や理想がかなっている面も大いにあります。

なのに!

そういう現実とは無関係に、『オーケストラに入れないでいる自分』にがっかりし、悲しんでいます。

この気持ちをどうしていくのか。
それがわたしのいまの課題です。

まだまだ解明・取り組みの途上にある課題です。

大きな失望、
悶々とした気持ち、

そういったものを感じたり思い出したりすることが頻繁にあるので、まだカタは付いていないのでしょう。

途中経過としていま、繰り返し自分に問いかける質問が3つあります。

『それじゃあ、オーケストラ奏者になるためのチャンスを徹底して探しつかみに行ったかい?』

『仮にオーケストラ奏者になっていたとして、日々を想像してみるとどんなことに気がつく?』

『そもそも本気でなれると思っていたかい?』

この3つを問うと、失望して悶々としているあいだは忘れている重要な事実・現実を思い出します。

☑ わたしは、実はオーディションを一度も受けていない。

☑ 一度応募したが、そのときやっていた別の仕事のほうが重要に感じて受験しなかった

☑ エキストラとしてプロオーケストラに出演できたときに、『あー夢が叶った。もうこれでいいや!』と満たされ、吹っ切れた気持ちになっていた。

☑ たぶん性格的にオーケストラの中でやっていくのがつらい(苦笑)

☑ たぶん数年で、どっちにしてもレッスン活動に完全に舵を切っている気しかしない

☑ 音大を目指していた少年時代も、音大に入ってからも、卒業後フリーランスの演奏活動を経験できたいたときも、プロオーケストラのエキストラの仕事をどうにかうまくこなせたそのときも、『自分はこれをやっていく能力が足りない』ということをはっきりと感じていた

これらのことを思い出すと、どういうわけか、失望感は消えていきます。

そもそも、希望を持ってないじゃん、信じてなかったじゃん、と。

まだ少しづつ思い出している途中ですが、

『プロのオーケストラ奏者になるぞ!』

という目標自体が、

自分の人生の方向性、自分の将来が曖昧模糊とし、自分の存在理由や価値がまったく見いだせずにいた思春期になかば無理やり見つけ出してとってつけた『漠然とした、でも強烈な不安に対する蓋』のようなものだった面があるように感じています。

その目標が達成できていないのは現実です。

オーケストラ奏者への強い憧れがいまなお根付いていて、
心の大きな部分を占めているのも確かです。

しかし、その目標を自分は真に追求しただろうか?
なにがなんでも固執し食らいついていただろうか?

・・・ぜんぜん、そうでもない現実があるのです。

その後者の現実に思い至ると、達成できていないという現実とそれにともなう失望感・悲しみはふと薄まり、あるいは気づいたら忘れています。

自己否定を止めようとするでもなく、
自己肯定しようとしているわけでもなく、

こうしてよく分からない気持ちと、忘れていた、あるいは気にかけてもいなかった過去をよく眺めることで自己否定を消失させていく。

そういう道筋があるのかもしれません。

Basil Kritzer

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【プロオケに入れなかった自分】」への2件のフィードバック

  1. すごくわかります。私は「音楽から離れた」という事実が「大きな出来事」として心の中にあります。離れる決断をしたときはむしろ清々しく、新しい世界にわくわくしたし、没頭したけど、今でもふと昔の友人の近況を聞くと「もし続けていたら今頃私だって音楽家として稼げていたんじゃないか」とか、妄想してます(笑) いつになったら妄想しなくなるのかな(笑) やめる決断をした時には感じなかったけど、奥底には隠された悔しい気持ちがあったのかな……。

    • そういう『妄想』って、たぶんなにかすごく人間的ななにかで、
      言うのがなぜか憚られるだけで、たくさんの人が共感できるんじゃないかな、という気がします。

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