わたしは、アメリカ人だが1歳から日本で育った。保育園、小学校、中学校、高校と日本の学校に通ったので、言語から振る舞いまで、基本的には日本人と同じ。
しかし、家庭は「アメリカ人家庭」。だから価値観や考え方、文化の面で、完全日本化はせずに来た。そのため、日本独特の「言葉で言っていることと、伝えたがっていることが異なる」というところに適合するのに苦労した。
苦労したというより、いまでも苦労している(笑)
日本の家庭に育ち日本の社会に育てば、たぶん「言葉」と「言いたい事」のズレを読み取り感じ取ることが自然とできるようになるのだろう(空気を読めるわけだ)。
しかし、わたしは「感じる」ことができなかった。そのため幼くして(無意識的にだが)採用した戦略は「徹底的に様子見をしタイミングと態度を導きだす」というものだったのだと思う。言葉とふるまいを「見て」、自分に危害がないようにする振る舞いを注意深く取る、という。
結局、「日本語」で「言われていること」を「額面通り」受け取っている。それ故、高校生のころだろうか、「ウマくなるためには全てを犠牲にして根性を武器にひたすら苦しくても練習しなきゃいけない」という『日本的お題目』を「額面通り」やり始めてしまった。
もしそれで疲れたら「甘え」。体調が悪くなったら、「ヤワなやつ」。とにかくひたすら「自分がダメ」。そんな自分を鍛えなきゃいけないから、「自分に鞭打って頑張る」。そういうやり方を「採用」し始めてしまった。
いま思えば、体育会計の「根性主義」の世界で生きているひとでも、どこかで手を抜いていて「ひたすら頑張るべき」という「言葉」とちがうことをやっているのだ。だから耐えられる。(あるいはパートナーや家族などを犠牲にしている。つまり自分だけを犠牲にするのではない)
しかしながら、額面通り実行したこの「根性主義」は、3年で終わりを迎えた。激しい腰痛と背中の痛み、慢性的な疲れで、練習すればするほどむしろ「吹けなく」なっていったからだ。
「たくさん練習すればするほど良い」という考え方を極限までやったところ、逆に練習できなくなってしまった。
その頃にアレクサンダー・テクニークを本格的に学び始めた。そのときから採用した新しい方法は「良い状態が持続する時間だけ練習する」というもの。あまりの痛みに、これ以外の方法はもう無かったからだ。
音大にいるくせに、一日僅か10分の練習から再スタート。これは怖かった。その前まで一日5時間とかやっていたから、尚更怖かった。「時間と労力を投入すればするほど成果が出る」という神話的考え方に対し、身体の方から「そうではないよ、それをやめなさい」という現実を突きつけられたという感じ。
練習量が少なすぎる、頑張りが足りない、音大生のくせにこんなんじゃダメじゃないか…..そういう罪悪感や恐怖を抱えながらも、この新しい練習のやり方でやらざるを得なかった。
では、この罪悪感や恐怖を乗り越えられた一番の要因は何だったのか?それは、「ホルンが吹きたい」ということだった。根性方式では身体が痛すぎて疲れ果てて、もうホルンを続けられなかった。でも、やめたくなかったのだ。「根性方式を続けてホルンを諦める」か「一日10分」を続けるか。究極の二択!
もうひとつ、恐怖感や罪悪感に呑まれずに続けられた要因。それは「成果」だった。それまで5時間鞭打つように練習していても、「うまくなっていく」実感が全くなかった。アップダウンを繰り返して、全体としては停滞。しかし、アレクサンダーテクニークを使った「一日10分」は「成果」があった。
他人と比較してまだまだでも、あるいは音大生の「達すべき」水準に比べてダメダメでも、毎日確実に「成果」が感じられ、自分が少しでもうまくなっていく「実感」が得られる。それに、身体が痛くなくて、ラク。吹き方も「本当はこれが自分だよな」という不思議な感覚。これが「原動力」だったと思う。
痛み、あがり症、自己否定、うまくなれなくて悩む….これらを全部経験したことは、いま普段のレッスンで受講しにきて下さる方をサポートするうえで大切な大切な体験だったと思う。
同感と思うことばかりです。ピアノについて関しては(趣味で弾いている程度ですが)幾ら練習しても上達している実感も無く、焦ってばかりでこの2,3年来ています。この年になれば自分のレッスンメニューもあり、指が回らないときの対処法もわかっているのに、なぜか前にすすむどころか後ろに下がっているような気さえします。アレクサンダーテクニークは手首を傷めたときに興味を持って調べた後、バジルさんのメルマガを購読していた程度で勉強していませんでした。再度勉強しないといけないですね。イタリアに住んで14年になりますが、バジルさんが感じてこられた日本とアメリカのギャップ、私はイタリアと日本で感じています。自己中心に相手に迷惑かけない境界線までは何でもやってOKというのが北イタリア式ですが、これは日本人の私には全く無理です。罪悪感につぶされてしまいます。コミュニケーションについても日本人以上に本音と建前があって、理解に苦しみます。ここでイタリア人家庭に生まれ育たなければわからない事で、しかもそれをマスターできなければこちらのコミュニティにも入れない。。。ジェノバの人は人と会っても不平不満ばかり言うのでイタリア中でも有名なのですが、すっかり息子もそれに染まってしまい。日本で育てていたらなあ。。。なんて思うこともしばしばです。文化の違いは本当に深いですね。がんばりましょう。
yamamoto さま コメントありがとうございます。文化のちがい、というものをわたしはもともと認めるのが好きではありませんでした。安易な日本人論、人種論の温床になりやすいからです。差別の正当化にも使われやすいですしね。でも、文化と歴史というものは、政治や国家体制よりはるかに強く深い影響力を持ちうるものなんだな、と最近は思います。育った環境というものは非常に重要な「自分の一部」ですね。それを否定するというよりは、「統合」したうえで自分のための選択できるのが、よいのかもしれません。
良い状態の時だけ練習する。正に今のわたしも採用しているポリシーです。
体の声を聞いて密度の高い練習ができればOK。
2011年からアレクサンダーテクニークを学んだことで(ホルン考を読んだおかげもあって)実践できたこの作戦のおかげで、逆に自分なりの演奏を年内に再開することができました。
2012年は人と共演する本番を引き受けることまでできるようになりました。
同じくらいの素質を持つ人が数倍の時間をレッスンや練習に費やしていることもわかっているけれど、いかにそれに流されずマイペースで自分の体と対話した練習ができるか、そこが勝負どころです(^_^;)(^_^;)。
kaori さん 密度の高い練習が、結果的に演奏の復帰と成長を早めたわけですね!すばらしい!後半のお話、めっちゃよく分かります。いちばんのミソですね。わたしの経験上、「他人」が気になるときであればあるほど、取り除く価値の高い、取り除いたらとってもラクになる「ストーリー」があります。
5時間が10分の恐怖にチャレンジしたバジルさんの言葉だから心に響くんですね。
MIさん たしかに、わたしは自分の真実から話しています。